モグラの繰言 2010.04

資金の海外流出 [0427]
国内の資金を投資などで、海外へ流出させるのはどうかと思う。
今、日本の赤字国債は、その殆どが国内資金(預貯金など)で賄われているはずで、これは、いずれ破綻するだろうと見られているのだが、その“裏支え”を少しでも外へ逃がすというのは、更に死期 を早めるだけでは?
それは兎も角として、『投資』は本来、堅実を旨とすべきで、地道な生産活動の余禄として利益を受け取るべきものだと思うが、それすら、相応のリスクを伴う。なのに、やたら利益の上がる対象を狙おうとするのは、如何なものか。
10兆円はとてつもなく巨額だから、勿論危険分散は図ると云うだろうけど、途上国政情不安定世界同時不況 などが起きれば、今度は税金で補填などは出来ないから焦げ付き・破産が、目に見えるようだ。
JR西の尼崎線の事故のように、“起きてはいけない事故”でも必ず起きるのだから、荒稼ぎを狙う投資などは、本来やるべきではない。もしやるなら、税金での補償・補填などは、絶対するな!

平和ボケ [0425]
先日来、日本中が“沖縄基地問題”で大騒ぎしている中で、中国軍が平然と日本の近海を脅かしているようだが、我々日本国民は何も感じないのかな?
特に、今の政府は、ある面中国には“仲良し国”の表情はしているものの、“沖縄基地の必要性”を言う場合、中国は“仮想敵国”のひとつ、としているのではなかったか?!
なぜ、中国の挑発に、毅然とした態度で臨まないのか?
外から馬鹿にされていても、一向に痛痒を感じない上、自分達の事だけにかまけて、国内問題ばかりに現を抜かしているようだが、防衛問題を制服組みだけに任せておいて、いいのかな?政治主導の話は別なのかな?
やれ“5月末までには、きっちりと”とか、“辺野古はダメだ”とか、言う前に、『日本の防衛問題』を声高に議論すべき時期ではないのだろうか?大変良いチャンスを、中国軍がくれたと考える事が出来ないのだろうか?
政府も、有識者も、マスコミも、そして一般国民も、もっと防衛問題を現実的な『技術論』として、わいわい大騒ぎする必要は無いのかねぇ。
(真面目で心優しい人間も、強くないと生き延びられないのが、自然の掟では?)

鎮魂歌 [0421]
いよいよ、“公式の愚行”が始まったようだ。
この起訴によって、一体何を裁くつもりなのだろう?そして、終わった後、死者の墓前で、何を掲げて報告するのだろう?もしかして、“副署長の首”かな?
しかし、そんな首で、事故で亡くなった人達が果たして、本当に喜ぶのだろうか?
(死者の答えなら、明快だろう)“いいえ!その人ではないわ!犯人は、後ろから押した人/人達よ!電車から降りようとしている人を押しのけて、われ先に乗り込もうとするのと同じ人達よ!”
だが、後に生き残った人達は、それを追求する術も無いし、悲しみ怒りの向け場が無いからと、適当な人間に矛先を向けたようだ。
それは丸で、通り魔的無差別殺人者 と同じ発想ではないか。“むしゃくしゃしていたから、手が届く人間なら、誰でも良かった”ってわけだ。(この裁判は、死者への鎮魂歌ではなくて、生者への挽歌だろうな)

暴走賊! [0416]
また、“盗人猛々しい”話に、裁判所までが、迎合してしまったらしい。この判定/判決?には、2つの大きな誤りがあるように思えてならない。
ひとつは、“暴走行為を止めさせるために発砲”した結果、犯人達が死んだのは、単なる結果論であって、その適・不適を後から云々すべきではない事。(“未必の故意”も、時と場合による)
犯罪の捜査や検挙や予防は、『無謬性(むびゅうせい)』を要求出来るほど潤沢な資金/税金人材時間を、それに神業!も、投入されて、実施されているものではないはず。
確かに、誤りを少なくする事前の努力や施策は重要だが、業務/公務時のミスや失敗は、当然ある確率で発生する事を想定・許容した上で、判断すべきだろう。(良く、“あってはならない事故”などと聞く事も多いが、そのベースは、非科学的な精神論だけのようで、戦前・戦中の“精神必勝説 ”と同じ)
その観点から、真面目に職務を遂行しようとした警察官達を、理不尽な要求 に応じてホイホイと罪に問うべきでは無い。“(警官はあまり好きではない)部外者”の見解として、犯罪に対しては厳しく立ち向かって欲しいから、この訴訟のような場合は、警官側を庇いたい
他のひとつは、暴走/犯罪行為に加担していた同乗者も、運転者と同罪であり厳しく罪を問うべきだと思う。
それなのに、“本来、責任を負うべき親族”が恥知らずにも、“他人の非”を訴える事自体、許される事なのだろうか?むしろ、息子達の暴走を止め得なかった事に、責任と恥を感じないのだろうか?
(これも、“自分の責任”は棚上げにして、“自分の権利”だけを主張する“ジコチュウ ”の典型例では?)

子育て [0415]
最近の親達の阿呆さ加減には、もう“呆れ”を通り越して、“怒り”さえ感じる。(左記事)
『子育て』は、“子への愛情の問題”も然(さ)ることながら、『技術の問題』も大きいのに、酷く軽く考えられているのも、腹立たしい。
また、乳幼児を大人達の“おもちゃ扱い”にして、“人間扱い”していないのも、大きな問題だ。
子供達は、表現の手段が限られていて、“泣く”か“身じろぎ”するくらいしか自分を表現出来ないことは、万人が知っている...そうだが、子供が何を表現したいか/言いたいのかを読み取る技術相互理解の努力に関しては、全くお粗末。(我々大人達が、サボっているとしか思えない。挙句、子供を人格の無い、物の如くに扱ってしまっている)
大体、“意味なく泣く ”なんてことがあるわけがない!のに、きっと大人が自分のことにかまけ過ぎて、“子供の不満足感や要望”を交信しながら読み取って、互いに妥協出来る程度でさえ、対応してやれない無能さ・無責任さの果てか。(とは云っても、平気で責務を放棄する親も居る世の中だから、親の身勝手さを怒っても無理・無駄か)
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お御籤 [0413]
神社や寺の境内・木の枝などに、多量のお御籤(みくじ)のカス?が結わえられている。(神社や寺では、後始末が大変だろうに)
自分も気が向いたら買って、持って帰るか、そこで結わえた事も多いが、気に入ってずっと手元に残してある1枚のお御籤を見ながら、“捨ててしまうのは、甚だ勿体無い事”だ。(左写真)
その意味は、(別に、神さんや仏さんへの信仰心ではなくて)書かれた内容(の一部)が、自分自身への問い掛けや、今後の自分の行動指針として役立ちそうだから。
これを、受身で読んで、吉凶に溜息をついたり喜んだり、当たらないのに腹を立てたりしても、あまり意味/価値は無いだろうな。
つまり、能動的に読んで、“ふむ、間違っていたか...では、次はこの考え方でやってみるか!”と、書意を汲んで活用するのが、お御籤の隠された趣旨/元々の使い方ではないかと思う。
そう考えると、たったの百円や二百円で、自分の生活/心身活動の手助けをしてくれる、こんな安い贅沢品は“他には、無い”ように思えて来る。

日本の経済 [0406]
よく分からないが、“日本の経済は、もうダメ!”なんだそうな。
昔、経済は、“生産と消費、それに流通”があれば成り立つものだと、教わったのだが、今あるそれらの何が?無くなったん?
多分、従来は華やかに成長していた経済が、滞留して来て儲けが薄くなったので、“経済がダメ”と単純に即断しているように見受けられるが、違う?
まぁ、識者や取巻き連は、やれ“デフレ”だ、やれ“不況”だと騒いでいるけれど、我ら庶民には全然その実感が無いんだが。
ちゃんとしたウサギ小屋にも住めるし、色々美味しいものも食べ、好みの衣服も着て、楽しい所へも行ける世の中だもんな♪
確かに、従来型の生産やその生産品は、安値を強いられ、生産量も少量多種になりつつあるようだから、従来方式のまま持続させようとすれば、苦しさは増すだろう。
でも、実際には、不況に強い産業・業種だって沢山あるそうだから、やり方さえ工夫すればいいのではないの?
不況の代名詞の“失業率”だって、聞いてみると、職種を“えり好みし過ぎ”の結果のようにも思えるけどなぁ。
一度、真剣に、(過疎化の)農村などで生きる事も考えてみたらどうだ?
(都会で残飯などを漁って生きるよりも、いいと思うが。まぁ、やる気が無いのかもしれんが、そんなのは率計算から除外すべし)

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