モグラの繰言 2010.11    我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴?!)

自力で [1127]
乳幼児の面倒を見るという作業は、可愛さや愉しさもあるけど、大変な気力労力を要する力仕事でもあるようです。
先日も、孫娘(一歳二ヶ月)を半日見ていたのですが、自分の背丈の1/2近くもある敷居を越えて、ベランダへ出たがるのです。
そこで、「自分の手と足で登れるなら、登ってみなさい」と言ったら、懸命に足を上げて登ろうとするのですが、力不足で上がれません。(夏場、元気な時には上がれたのですが、今は風邪を引いていて、厚着をさせているし、体力も落ちているせいでしょう、無理な様子)
そこで、こちらへ泣き付きに来るので、同情はしてやるのですが、そっと押し返して、「もう一度、自力でどうぞ!」
三度四度トライするも、ダメで、結局は諦めたのですが、こちらも「甘えられて情に負けてしまうと、つい抱えて越させてしまうだろうな」と思いながら、「したい事は、出来るだけ自力でやりなさい!やれるはずだから、簡単には手助けしませんよ!」と呟(つぶや)くひと時でした。

不登校児 [1126]
ここ二日ばかり、ハードウェアに手が付けられなくて、別の用をしなければならず、時間潰しに専ら「積読本」?を読んでいます。
その中で、左の書籍には、不登校児、ひいては通常の親子について、今まで気が付かなかった事や知らなかった事を(事例に基づいて)かなり色々教わりました。
まず、現在の(高名な)精神科医でも、まったくいい加減な指導しか出来ないらしい事や、やはり子供を救えるのは両親、特に母親である事。そして、子供を、同じレベルで理解出来るようになる事だそうです。
具体例では、両親が大の犬猫嫌いだったのだが、飼いたいという子供の希望を(親達が節を曲げて)許してやった事で、子供が立ち直れた話もありました。
親の立場やプライドも全部放棄しないと、子供を救えないのですから、大変な苦痛でしょうね。(自分だったら、実際にやれるかどうか心許(こころもと)無い...)
やはり、今まで何度も取り上げて来ている「いじめ」も、親でないと、子供は救えないという思いが、益々強くなりました。

抵抗する力 [1122]
「いじめ」の話で、いつも思うのは、何故子供一人一人を、もっと強く逞(たくま)しく育てない/育てられないのだろうかという事です。弱い数人のために、皆が大騒ぎするのもヘン!
例えば、左記事のように物理的に抵抗するのも一つの力ですが、いじめられたら大声で叫ぶとか、ワイワイと泣くことが出来るのも、一つの力ではないかと思います。(要は、自己アピール力)
あるいは、いじめっ子に刃向かって行く気力を養わせるのも一つでしょう。ただし、手加減も教えるべし!(私も小さい頃は弱虫の部類でしたが、嫌がらせをする相手を、棒を持って追い掛け廻したことがあります。その後、嫌がらせは減って気にならなくなりました)
幼児の時期からの育て方に拠るでしょうが、強く育てる事は、親がその気になれば、それほど難しい事ではないと思いますね。(只管、可愛がり過ぎて、いい子で居させようとするのは、いじめられッ子を作るようなものです)
実績のある「ヨコミネ式−4つのスイッチ」、「ヨコミネ式−追加」の普及が望ましいのですが、もっと多くの保育園・幼稚園で採用出来ないものでしょうかねぇ。
(この方式に抵抗する人達も居るそうですが、そんな保守・後退性が「いじめられッ子栽培」の元凶では?)

いじめ対策 [1120]
ここの「教育委員会」って、しょうも無いことを考えますね。なぜ、校長を処分したら、「いじめ」や「生徒の自殺」が、解決出来るのですか?(聞きたいのは、“そこんトコロ”!)
どうも、意識を向けるべき方向が、違うように思いますね!
同じやるなら、小手先でも良いから、具体的な対策を考えてはどうです?
例えば、昨今は「みどりのオバサン&オジサン」が大勢朝早くから、街角に立って児童の通学時だけ見守っていますが、あれの「校内版」を試みては如何ですか?
これには、参考体験があるのですが、生徒達は意外に「社会人の眼」を気にしているものなのです。ある時、運動場から塀を乗り越えて外へ出ようとしていた“5,6人のだらしない格好をした不品行グループ”を、近くに立って正面からじっと見詰めていたら、こちらの気配を感じていたのでしょう、乗り越えるのを止めましたから。
具体策として、時間中、1,2名の一般人(ボランティア)が同席することです。(その実例
やがては、生徒達と多少馴れ合いになったとしても、社会人という位置付けなら、「いじめ抑制」の効果はあると思います。(ただし、数が増えた時は、“不心得者”が入る可能性もあるので、人選には注意すべきでしょうが)
(こうした案を、もう既に実施されている地域もあるかもしれませんが、“校長処分”するよりもずっと前向きで、実践的では?)

育児と仕事分割 [1119]
やはり、地元の市民の反応は、大多数(8割)が、知事や市長の「公務への私用の割り込み/公私混同」には批判的だそうで、大変安心しました。
これは、首長の仕事の性質を考えると当然なことで、本来は、24時間を公務に使っても足りないのではないかと思います。
とは言っても、担当するのは只の人ですから、毎日を生き延びて貰わないといけないし、そのための休息時間も必要でしょうね。
それはさておき、一般の人が育児に時間を割く場合、当然社会(つまり会社など)で担当する仕事量・質の削減も不可欠でしょう。
しかし、会社でやるべき仕事は、ひいては社会的な損失にもなるので、(無策のままで、)量や質を落とすべきではないのは、当然でしょうね。(これは、実は、「一般のサラリーマンは、育児休暇が取り難い」という裏の理由なのだと思います)
それらを回避する一案として、以前話題になった「ワーキング・シェア方式」(2人3脚、3人4脚?)が使えるのではないでしょうか?
当然、各人の給料は減るけれども、会社/社会の仕事の質や量を落とさずに、仕事を分割・分配(ワーキング・シェア)をして、個人が必要な時間を増やすひとつの方法ではないかと思います。
ただ、この方式は、個人の自主・自律意識が不可欠だろうと思います。怠慢のせいで、お互いが足の引っ張り合いをしないとも限らないからです。

アナログ的に [1118]
子供達に、「物事の善悪」や「すべき事」、「してはいけない事」を教える場合、技術用語で言えば「アナログ的」に、通常用語なら「手加減して/程度を考えて」と教えるべきではないでしょうか?
これは、実生活では、意外に難しい事だろうと思いますが。
(自分でやろうとすると、面倒だ!と、直ぐ手抜きしたくなるし)
『手加減』というのは、相手・事物の状態や反応を見ながら、やらなければならないので、相手を「観察する力」や状態を「評価する力」が必要になります。
それは、小さい頃から教え込まないと、ちゃんと覚えられないし、身に付かない事でしょう。
優れた音楽家スポーツ選手は、そうしてコツを掴むよう育てられて来たんだと思いますね。
だから、普通親でも、義務として、子供達に『手加減する』事を教えるべきですね。(例えば、小動物を自分でちゃんと育てさせ、死んだ時も自分で始末させるのも、一案か?)
(駄施策だけど、「子供手当て」の支給に当たっては、そうした「義務履行」と引き換えにしてはどうでしょう?)

いじめ [1116]
『いじめ』というのは、文科省の定義?では「(子どもが)一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」だそうです。
なるほど!「時の人」や「有名人」は、周りに群がるマスコミから、凄い「心理的・物理的攻撃」を受けてますねぇ。あれが自分なら、酷い「精神的苦痛を感じる」と思いますが、「マスコミ・ハスメント」か。
ま、それは兎も角、大人の場合、“▲▲ハラスメント”とかいって、加害者を罰する法律があるのに、子供達の場合、加害側に何らかの罰則規定はあるのかな?もし、唯一「指導念仏」だけだとしたら、“大人達って、いい加減で、無責任!”って言われそうですねぇ。

ミニ保育所 [1113]
『3歳児までの保育』は、人間形成の期間内で最重要だと感じているのですが、世の中は、取り敢えず「保育」だけを急いで作れば何とかなると思っているのでしょうね。
でも、保育の中身をもっと高度で良質のものにする当てが無いと、「単なる箱」だけになってしまうので、急いでやるのは大変問題です。(でも、「親の虐待防止」には、無いよりマシか?)

実は、先日年少(一歳二ヶ月)の孫娘を1日中見る機会があったのですが、きちんと丁寧に教えれば、ちゃんと「許されること」や「してはいけない事」を覚えられることを再認して、思いました。
具体的な話ですが、未完成の公園の入口に「入ってはいけない!」との文章と「お辞儀をしている絵」の看板があるのですが、そこに入り込もうとしていたので、こちらで強制的に引き留めて、絵も含めて看板を一言一句全部読んで、“まだ、入ってはいけない”と説明したのです。 ・・・ その後は、よたよた/よちよち歩きながらも、そこから入ろうとはしなくなりました。
そして、後で家人がやって来た時に、自ら何やら(意味不明の)声を出しながら、その看板を指差して懸命に説明?!要は、入ってはいけないって事を、自分で言いたかったようです。


社会的なルール危険などは、子供が自足で歩き出したら、直ぐに覚えさせねばならないことだし、また理解も出来るはずです。(“しゃべりもしないから、そんなはずは無い!”と思い込んでいる人も多いが)
いじめ の源も、この時期に醸成されている可能性がありますね。

残念ながら、そんなのを事案ごとに丁寧に教えるには、大人一人二人が掛かりっ切りにならねばいけないけど、今の少人数の保育者で大勢の子供達を見る方式では、不充分で不完全ですよ。
今時は、ルールなど細かい事(?)を教えるのは、幼稚園や小・中学校で教えればいいや!って、放任♪していますが、それは無責任だし遅過ぎです!しかも、今の世の中の親達を見ていると、何事もルーズになり過ぎの家族が多過ぎ!

だから、「ミニ保育所」も結構ですが、科学的で実用的な保育のルール作り、マニュアル作りと、それでの保育者の事前トレーニングは、大変重要な要件だと思います。
(保育は、箱(ハード)と愛情(ソフト)だけでは駄目で、実践説明書(ハウツー・マニュアル)も必要ですよ!)

訴訟で [1111]
旧い記事を見ていて、また腹立たしく思ったのですが、学校側は“マスコミ”と“身勝手”から、随分『陰険ないじめ』を受けていますね。
“マスコミや親”は、自分達に正義があるものと思っているようですが、果たして、そんな権利があるのでしょうかねぇ。
学校側は、今はまだ、受けている『陰険ないじめ』を逃げる方法が無いから、自分達も自殺でもしますか。
生徒の教科指導不十分だけで、“子供を自殺に追いやった”などと言い掛かりを付けられて謝らされたなんて、まったく理不尽ですね!自殺に追いやった、大本の原因は、親と世の中なのに!
丸で、尖閣諸島はシナの領土だ!と脅されても、自分が弱いし、相手が怖いから黙っているようなものですよ。
こうなったら、学校側はいっそのこと「いじめ」あるいは「名誉毀損」で、連中を“提訴”しませんか?
訴訟で、真実を勝ち取るべきはないですか!あ、公務員は自ら訴訟は出来ないのかな?)

親の鑑 [1110]
この投稿を拝見して、これこそ現代版「親の鑑(かがみ)」だと思いました。これは、元の「親の鏡」とは意味を変えており、『他の親が、お手本にすべき姿』の意味です
この記事で望んで居られるのは、単に「周りの理解」のようですが、実は、「いじめ、孤立化」対処に効を奏したのは、『ご自分(達)が身を挺して子供を守ろうとされた事』でしょう。
勿論、それに応じて学校側も協力したようですが、学校側が出来るのはその辺りまででしょう。
ところが、今は、「モンスター親」+「マスコミ」が、何でも彼でも学校側の責任にしようとするようですが、それなど、完全に正義に反し/間違っています!
オマケに、後ろめたいのか、「文科省」までが「教育委員会」や「学校側」に責任を押し付けようとしていますね。「報告不十分」なんて、白々しい指示を、今更ながらに出して、あっさり責任逃れ?
この際、「初動を起こすのは親で、責任を負うのも子供達の親だ!勿論、学校側は出来るだけ協力すべし!児童相談所は既に手一杯だから、当てに出来ない!」とはっきり云うべきではないですか!

想像力不足 [1110]
日テレ記者達が遭難した事件では、物事の「過小評価」が事故を起こした主要因だそうです。(逆に、色々な「保険」などはどれも、“巧みな宣伝?”によって、事件・事故を大袈裟に評価する「過大評価」なのですが)
我々庶民だって、何時事件・事故を起こすか、または巻き込まれるか分かりませんし、その時の対応をどうするか、常日頃考えていないといけないでしょう。
そんな事など起きて欲しくない!そんな事など忘れよう!と思うのが、普通人の心情ですが、それは想像力不足でしょうね。
やはり、今事件が起きたらどの程度の被害になるか、何処まで自分(達)でカバー出来るかを、常に考えておくべきだと思います。
(実は、年長の孫娘の学資稼ぎアルバイトで夜遅いのが心配で、あれこれ気を揉んでいるのですが)

日本現代史 [1107]
日本橋傍のBOOK-OFFで、政治・現代史の単行本を4冊ほど買って来たのですが、どれも大変面白い、と云うか、改めて興味深く読め、参考になりました。(各\105税込。安いけど、値打物です)
その中で、今の主テーマにしている『子・孫達へ残したいもの』として、こんな書籍もいいのではないかと思いました。
拝啓 韓国,中国,ロシア,アメリカ合衆国 殿日本に戦争責任なし 谷沢永一、渡部昇一共著 光文社 1997年11月初版(\1,200)
戦後-歴史の真実前野 徹著 (株)経済界 2000年5月第4刷(\1,400)
現代史、特に日本の戦前・戦後史は、「教科書」では何が真実だったか、全く分からないようにしてあるし、また授業でも飛ばしてしまうのが常態化していますね。(そんなの知らん!状態)
まぁ、未来に向けて歩んでいる若い人達に、今更過去の歴史を学べと言うのは酷かもしれないが、今自分が立っている『立ち位置』がどんな風に出来上がって来たのかを知れば、次の一歩も踏み出し易いのではないかと思います。
私も、これらの書籍を読んで、日本国憲法は、今までは無難に利用出来て来たけれども、実は大変な矛盾を含んでいるので、今後これでは、日本が立ち行かなくなるだろう、もう一度、真剣に考え直し、作り直すべきではないかと思い始めました。(元々、憲法に多少の矛盾はあってもよし!とする非改憲の方でしたが、今のままだと、例えばですが、「人権」は大切だとしながら、実は平然と「人権無視」を許すらしいので、何が憲法だって!ことに)
(尤も、それには、日本人に、誇りと自主独立の気持ちが大事なのですがねぇ)

機会均等? [1105]
新しい構想(?)らしい「こども園」に、なぜ?旧い形骸を残そうとするんですかねぇ。しかも、現実の汚物も一緒に包み込もうとしているし、ホント内閣府の頭の中が分かり難い!
これだけ、『競争原理』が強い経済中心の社会なのに、教育・導育ではまだ「機会均等 」なんですか?
まだ、それが本当に平等だと思っているのですかねぇ。
企業など経済界は、これまでお互いの競争によって、強くなって来たはずです(強い企業は、世界の中でも通用するし)
子供達は、小さい頃から、程々の(適正な)競争の中で育てなければ、(全部ぬくぬくでは、)ひ弱な大人しか育って来なかったのが現実でしょう!
国が考えるべきは、競争をさせながら、もし落ちこぼれが多少あれば、それをどうやって救うかってことだけですよ。全員を意味も無く揃えようとするのは、馬鹿げたやり方です。
子供達を、競争させながら、一人一人が自助自立が出来るように育てれば、格差があろうが無かろうが、それなりの生き方が出来るようになります。
今は、何でも彼でも他人のせいにするひ弱な大人が、何でも彼でも他人のせいにするひ弱な子供しか育てられず、益々広がってしまって手薄になる公的保護を与えなければ生きて行けないような社会構造になって来ています。将に、下降スパイラル状態ですね。
国(今の政府)が、それを(嬉々として)手助けしていたら、仕舞いに、国は▼▼ではないですか!
(あらまぁ、政治の話になってしまいそうですが、どうやら教育も政治も切り離しては考えられないか?)

役得の可否 [1103]
さて、「左の記事」を、教室で生徒達に紹介するとしたら、どうでしょう?意味ある議論が色々出て来るのでは?
今の世間の評価や教育の方式だと、通り一遍に「禁止事項だから、ダメ!」となるでしょうね!また、そう教えるしかないのでしょうけど。「脅迫文を書かせる」事でも、非難ごうごうですからね
しかし、世間を見渡しながら考えると、『汚物処理をする大変な仕事をしているのだから、それぐらいは役得ではないか』と言えませんか?ま、潔癖な人達なら、それすらおぞましいかもしれませんが、そうでない、基準値の違う人達も沢山居るだろうと思いますし

何処かの知事の公務中の「私的育児休暇」と同じようなもので、法律的に認めれば、違法ではなくなるわけですし、ピンからキリまで十杷一絡(じゅっぱひとから)げで、デジタル的に白-黒/1-0を付けてしまうのは、至って知恵の無いことではないでしょうか?
子供達には、もっと物事をアナログ的に見て、何処で白黒を区切るべきかを判断出来る力を養わせる事が、大切でしょう!
というわけで、教室の生徒達には、凡例や得失なども併せて示し、自分達で討議・評価出来るように提供してやるが良いのではないかと思います。(“違法だ!と教えた!”だけでは役に立たないのが、現実・実態ですからね。例:左写真)

責任押し付け [1101]
左側左の記事は、世の中/マスコミの見解だそうですが、先生やその授業ばかりを問題視して、「雑用低減」や「人員増員」のような無責任な話 にすり替えてません?

子供達が持っている知識ベースって、周りの大人達や社会/マスコミが与えているんですよ!
先生達は、それを手掛かりに、別の新しい知識をける作をしようとしているだけだから、ヘンな例え話 しか出来ないのは当たり前ですね!
(子供達が、実体験し易くて刺激の強い「ゲーム」や「マンガ」、「携帯」、「食物」にしか興味が湧かなければ、話だって豊かに広げようが無いでしょ?)
授業で取り上げる「例え話」が悪いのなら、子供達に、そうした有害情報を垂れ流し にしている世の中の善い奴等悪業も、非難・退治すべきではないですかね!(例:上の右記事)
マスコミも、もっと物事をよく見詰めて、根源的な対策を提案して欲しいものです。

[表紙頁]へ  関連記事の目次へ  [一言板]へ