モグラの繰言 2011.01    我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴!)

現実指導 [0131]
子供を抱いて道路を横断した時の話。
家人は、横断歩道のある場所まで行こうと主張していたのですが、私は、無い場所で強引に走って渡りました。当然/勿論、両側から来る車の動きは、充分確かめた上ですが。
これで、ふと、(自分達の身の安全を考えない)日本国憲法−第九条のことを思い出しました。
確かに、「戦争ノ抛棄」は理想かもしれません。しかし、『現実』には何としてでも、「安全に生き延びる方が、先!」ですよね。(“命有っての物種”です)
だとしたら、子供達には、「先ず生き延びる技・業」をちゃんと身に付けさせてから、理想なり何なりを追い掛ける努力をさせるべきではないかと思いますね。
自分の身は、自分で守らなければ、安全なんて、他人や自然が優しく恵んでくれるものではないですから

触れ合い [0129]
先日ある番組で見たのですが、保育器に入れないと育てられない未熟児でも、時々取り出して、母親の肌に直接触れさせる時間を設けている病院/産院が増えているそうですね。
“あぁ!それは、大切なことだなぁ!”と思わず感嘆&嘆息。
赤ん坊・子供が、人間らしく健やかに育つためには、親との肌の触れ合いは、やはり不可欠な事だと思います。
近頃は、世界的にも、早くから子供を保育所などに預けるようになって、親の手から離すようになって来ていますが、本当にそれが、社会にとって、差引勘定で得なのか損なのか?気になって仕方がありません。
何方か、それの損得の検定をしてくれないものでしょうか?

時代は鈍速? [0127]
コンピュータ関係の資料本を捜(さが)しに行って、見付からず。代わりに、BOOK-OFFで、コンピュータとは無関係な本を2冊買って来ました。(左写真。\210税込み)
実は、今の内閣の閣僚の多くが、大蔵/財務大臣経験者だそうで、大蔵省の洗脳に遭っているらしいという話を思い出したので、もう少し実態を知りたくて。(「誰が国賊か」は、平成9年版)
面白い事に、10年20年前に発刊された中古本をあれこれ読んでいると、そこに書かれている内容が、今でも通用するほど「現実的」なのです!
これは、その著者が先読みをし過ぎているのか、それとも世の中の動きがあまりにも緩慢過ぎるのかは、よく分かりませんが、これらの中古本を見ると、今と何ほども変わっていない事に気が付きます。
と言うことは、指摘されている事柄は、もしかして“永遠不滅”だって事でしょうか?うむ、悲惨!

悪役 [0125]
以前、「バクダッドの盗賊」というDVD映画を見て、ジャファー(という悪役俳優)がなかなか魅力的だなぁと思ったことがあるのですが、先日見た「レッド・クリフ/赤壁」での曹操にも、それを感じました。
これは、脚本家や映画監督の想いが反映されているためだろうと思いますが、やはり俳優自身の人柄や演技力に依る所が大きいような気がします。
歴史上の人物は、どう解釈し、どう演じるかで、随分“好悪”の印象は変わるもののようですが、実際は、演じている俳優自身を見せて貰っているって事でしょうし、また、“それを愉しむ”だけでいいのだろうと思います。(それにしても、二枚目は、何役をやっても、得ですねぇ。いえ、福山龍馬の話だけではありませぬが)

物の値段 [0123]
以前は、買った物の値段を露骨に書くのを恥ずかしく感じたものですが、近頃は、それではあまり意味が無いと思ってます。
自分では、“掘り出し物だ!安く買えたぞ!”と思っても、他の人達からすれば、“幾ら?ん?感想だけなの?”と、相手にして貰えないだろうと思うからです。
自分で抱え込んで“ほくそ笑む”だけの骨董品などは、それで結構なのでしょうが、やはり、現実的な価値の評価力を養うには、思い切って晒(さら)して見る事ではないかと思っています。
直接具体的な評価や意見は聞けなくても、自分なりに適正に評価しようとする癖が付きますし、買う工夫や知恵も増えます 。
お金は、“汚いもの”のように考えたり扱ったりし勝ちなのですが、眼を背(そむ)けても何の得にもならない!
やるべきは、積極的に、「(分かり易い)物事の尺度の一種だ」と見据えるのが一番だろうと思いますね。
(それにしても、13億人の国のトップともなれば、外国でちょろっと1 数兆円強の買い物が出来るんですねぇ。一人頭数千円か♪...他方、一家庭当り一千万円強の借金にも、他人事のように平然としている国もあるし)

味 [0119]
近頃、食べ物のに付いて考える事がよくあります。
料理の器一品一品に、それ相応の味付けがされているだと思うと、丁寧にその器の料理を味わって、食べ切りたくなります。
料理の作法では、「一つの器の料理だけを食べて、その器を空けてしまうのは無作法」とされているそうですが、私はそれこそ料理を作ってくれた人に、大変失礼なのではないかと思うようになりました。
つまり、その器の料理は、ご飯=お米の味で薄めないと食べられないほど(お粗末な)濃い味付けになっているのか?って事。
そんな筈は無いでしょう!それだけで、充分に美味しい筈で、食べ切っても可笑しくはない。 それに、「お米」そのものにも失礼ですよね。
ご飯を、そのままでよく噛んで食べると、意外に素直で良い味がするのですが、それを別の料理の味で誤魔化してしまうわけだから、折角のお米の淡い味も、完全にけし飛んでしまいます。
(どちらも、大変勿体無いことですし、本物・素材の良い味を知らずに、作られた濃い味、甘い味などをごちゃ混ぜにして美味しいと思うのも愚か...だと思うんですがねぇ)

子供を観察 [0117]
先日、家人が買い物先の百貨店の「子供の遊び場」で、遊ばせている幼児(2歳前後?)の行動を巡って、両親が言い争っているのを聞いた話をしてくれました。
「具体的に指示をしてやらせる」(母親)か「子供の自由にやらせる」(父親)かの違いだったそうですが、子供さんの状態を見ないで、今現在、どちらの方が適しているかを言うのは、大変難しい/まず無理ですね。それよりも、こうしてはどうでしょう?
まずは、協力して、子供が今どの段階にあるかを、良く観察すべきだと思いますね。
子供の成育度合いを見て、「行動指示型」を採る時期なのか、「放置見守型」を採る時期なのかを見計らいながら、対処して行けば、やり方に、それほど大きな差異は出ないと思いますよ。
子供の方は、案件毎に状態が違うし、また刻々と変わっても来るはずだから、都度、追っ掛けなくては!
(“面倒臭い!”?それを言っちゃぁお仕舞めぇよ!デス)

初めてのお使い [0114]
TVの番組で「初めてのお使い」というのがありますが、あれは、見ていてハラハラドキドキ!下手なエンタメ番組より、ずっと面白いですね♪
他方、大変教訓的でもあって、親御さんの方の「読みの深さ」、「決意」、「心遣い」や「辛さ」が良く判ります。
子供さんに、少しだけ無理をさせながら、失敗させてしまうと元も子もないから、必ず成功するように「ターゲットの選定」や「送り出し方」にも慎重さや工夫も必要でしょう。
当然、ベテランのスタッフからの「事前のアドバイス」や「実地での監視」などもあるでしょうけど、子供を“保護無し”で独りで送り出すのは、大変なことだろうと思います。(尤も、私は、子供の毎日の活動が、そうなんだと思ってるんですが)
それにしても、カメラマンが傍に纏わり付いていても、子供(達)は意外に無関心なのですねぇ。
(視聴者としては、様子がちゃんと見られるから、いいのはいいんですが...)

落ち葉マーク [0111]
最近、「落ち葉マーク(もみじマークとも言う)」を張ってある車を良く見かけますが、あれはまったく無意味だと思いますねぇ。
車って、本来は運転技術の有る/確かな人だけが、乗るべきものではないでしょうか?
そのために、わざわざ教習所に通ったりして、運転技術を身に付けて、免許を取得するんですよね。
その「技術/技(わざ)」が衰えて、使えなくなったら、(年齢に関わらず)即刻免許は返納すべきではないですか。
初心者マーク”も、今では“有名無実化”していますが、あんな“枯葉マーク”を「免罪符」のように張っておけば、「社会の安全性」が保てるという発想は、何とも解せません。
(実は、公園の駐車場で、「植物の植えてある方に、前向きに駐車して下さい!」と書いてあるにもかかわらず、わざわざ排気ガスを吹きかける向きに駐車している落ち葉マーク車を良く見掛けるもんで。子供達に“示し”がつかない!)

ぎょ! [0109]
[「過保護と溺愛の子育て法」 松原英多曜曜社出版 \1,300 中古品\105]
先日、BOOK−OFFで本を物色していた時、ひょっと眼に付いたのが、これ!(一瞬、ぎょっと)
以前だったら、「何を、馬鹿な!」と一瞥(べつ)だけで終っていたはずですが、最近、脳が活性化しているせいでしょう、「いや、まてまて!もしかしたら。。。」と、取り上げてみました。(左写真)
案の定、中身は納得出来る正論(!/?)が殆どでした!(左写真クリック)
(人もそうらしいけど、“「本」も見かけに寄らぬもの”ですね)
それにしても、やはり子供は(知恵を使って)溺愛すべき存在のようです。他方、託児所/保育所に預けた子供は「自分の子供になれない」というのは、実は、私も大変気になっている事なのですが...

知らない事 [0106]
[本物時代の到来 船井幸雄著 ビジネス社 \1,500+税 中古品\105]
この方は、現実をずばりと分析・断言されていて痛快に感じる所もありますが、(失礼ながら)何だか胡散臭いなぁと思ってしまう話もあります。
ただ、そう感じるのは、こちらが知識が無い、あるいは感知出来ないだけで、実際は存在していて正しいと言えるのかもしれないなぁ、と思ったりもします。
例えば、「イヤシロチ」や「ケガレチ」などという言葉を、極く自然に使われていたり、「自然の摂理」などとして説明されている事も幾つかありますが、何か宗教的なものに取り憑かれて居られるのかと見ても、全然それらしくはない。
(この「ケガレチ」については、“あぁ、あそこは、そうかもしれない!”という実感の在る場所=ある場所に立つラーメン店で、そこのオーナは何人も入れ替わっているようだが、殆ど客が入っている様子が無くて暫くすると、また看板が替わっていたり=などは、確かにありますね。でも、それは、我々には結果でしか分からない)
お話だと、そうした知識や考え方を上手く使えば、より多くの“幸運”や“幸せ感”を得る事が出来るそうだし、実績もあるらしい。
私としては、それらの知識も無いし、あったとしても上手く使える自信は無いので、当面は“敬して遠ざけたい”気持ちですが、“決して無視は出来ないし、してはいけない!”とも思っています。

知るは利益 [0104]
[「次」はこうなる 堺屋太一著 講談社 \1,600+税] 中古品\105
近頃、百五円の中古本を読んでいて、“眼から鱗が落ちる”というか、“(自己)発見した!”ような内容によく出会うので、“これは儲けた!”と思う事が多いです。
それは、往々にして、どちらの事実も知っている事なのに、今までは繋いで考えたことが無かった...で、今回は繋がって、「なるほど!」と感心、感激したわけ。
この本でも、それが幾つかあったのですが、その中に「首都遷都」は、大改革の一つだと指摘されていた事。(歴史的には、何度も行われ、都度世の中が変わって来たそうです)
それで、大阪府の橋下知事が、府庁をWTCビルに移そうとしている意図が、今やっと判りました!
今までは、何と無く“勿体無いなぁ!”、それに“不便だろうに?”くらいにしか思わなかったのですが、どうもそれ以上のご利益(りやく)があるらしい。
他人事だけど、儲けになるなら応援して上げたいものですが、それにつけても「知らない/知らなかった」ってのは、何だかなことですねぇ。(利益が出るはずなのに、それに考え付きもしないってことですから)

自分教 [0101]
世の中には、宗教法人がゴマンとあるといいますが、それにしても、まぁ色々な宗派があるものですねぇ。(文化庁資料
けれど、どの宗教人間でも、目的はひとつ、先ずは“自分の幸福”を願って、それを満たしてくれるもの、あるいは、“自分の不幸”を軽減してくれるもの、を求めるようです。
尤も、どんな物事で“幸せ”を感じるかは、人それぞれでしょうし、それなりのものが必要でしょうが、突き詰めると、総ては他力本願で、何かの“教本”や“教祖”、或いは“お呪い”が無い/居ないとやって行けないもののようです。(自分の幸せも、他人任せね)
で、最近考え始めたのが、(宗教嫌いの)自分でも教祖になれる「自分教」!
“今ある自分に、ある程度?満足し、ほんの少しだけ欲を出して、自分で汗を流し、少しだけ無理をして、それを満たし、満たせても満たせなくても、それはそれで満足して、幸せに感じられる”っていう生き方を練習すれば、特に、宗教薬物に頼らなくても、充分やって行けるはずだ!と思うようになりました。
勿論、自給自足ではないので、生きるためには、他の人達に色々頼らなくてはいけない事が、沢山有ります。でも、それは「感謝の気持ち」で受け取るべきものであって、軽々しく「自分が受け取る権利」のあるものだなどとは言いません。
だけど、「自分自身の権利」だとはっきりしている物事に関しては、安易に譲る事はしません。喩え喧嘩になったとしても、奪い取るつもりだし、他人にとやかくは言わせない。でも、大半は、相手が気の毒になって、譲ってしまう事も多いのですが。
...とまぁ、こんな風にやっていると、毎日を結構愉しく生きられます。

(不思議と、やり残した事もそれほど多くは無くて、今日明日の事だけを真面目に片付ければ良い感じがあって、何時逝っても悔いは無い!って気持ちになります。これが、「自分教」の面白さでしょうが、他人には勧められません。だって、自分と他人とは、それぞれ違う生き物だから。d(+,-)

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