モグラの繰言 2011.04    我楽多苑 別亭へ (真面目な愚痴!)

侵略の世界史−続 [0429]
「侵略の世界史」 清水馨八郎著 (承前)
この本に書かれている、白人の侵略の(これでもか!的)歴史の中での“奴隷の扱い”は、確かに、今で言う“非人道的悪行”でしょう。
でも、考えてみると、どの民族内でも、民族間でも、“他人・他集団・他種族差別”の歴史を持っているのではないかと思います。
それが、どの程度まで酷くなるかは、時代背景やお互いの力関係にも依るでしょうが、ひとつは、差別を受ける側の力(対応力)に依る面が大きいかも。(つまり、抵抗する力や意思や知識)
その「力」に関して、興味ある記述がありました。(左上写真&<クリック>)
結局は、(“どちらが正義か?”云々ではなくて、)「意思」や「力」や「知識」が有るか無いかで、物事が決まって行くってことでしょう。だから、無抵抗・非抵抗・無批判では、単にやられるだけです。
キューバが、独立国として立派に生き延びているのも、徹底して抵抗して来たお蔭でしょう。
(この事からも、“イジメに遭う子供達”には、『兎に角、“抵抗する事”を練習しなさい!』と教えたいですね)

侵略の世界史 [0427]
『「侵略の世界史」 清水馨八郎著 祥伝社 平成10年8月第2刷 \1,600+税』(購入\105税込)
流石に、大人になってからは、黒人達や黄色人種の多くが、白人達の侵略の被害に遭っていたのだという認識が固まって来たのですが、子供の頃は、映画などで見たアメリカ・インデアン達は“町の人や騎兵隊の敵だ!(悪い奴等だ)”とばかり思っていましたから、どんだけー!ウソを教わって来たかって事ですね。
例えば、“キリスト教の布教”が、実は「未開地域の“富の収奪活動”と表裏一体」だったなんて知ると、物事の表側だけしか見てなかったわけ。
そうした批判眼で、鯨やイルカの捕獲禁止を訴える白人達を見ると、果たして、彼等の裏側には何があるのだろうか?って疑問になったりします。
“それはだ!”とか云うけど、実は“自分達の価値観”を押し付けて来ているだけではないのかな?
酷な見方かもしれませんが、もし、世界中が餓えて、あれら以外に食べるものが無くなれば、きっと“食べてもいい理屈”を考え出して来るに違いないと思いますがねぇ。
(尤も、だからといって、全て彼等が間違いだとか、嫌いだとか言うつもりもないですが)

未来予測 [0425]
「人類は21世紀に滅亡する!?」 糸川英夫著 (承前)
取り上げられているテーマは、ユニークで面白いのですが、2/3まで読み進めたのに、“21世紀で滅亡するはず”という展望?筋道?が、まだ見えてきません。(見逃したのかな?)
(尤も、それは怖いもの見たさだけでして、本当に見たいわけではないのですが)
で、ここまで来た時に、こんな記述がありました。
伊藤みどりさんが、絶対金メダルを取ってから“プロ”になると宣言していたのに、カルガリー五輪では「銀メダル」に終ってしまった例を挙げて、『目的と結果不一致の法則』というのがあるのだと書かれています。
ははぁ、なるほど!この本も、滅亡を予測するのが“目的”だったのに、“結果は不一致”になったのかな?と皮肉っぽく拝見しました。
まぁ、それは別にして、世界の多くの国は“WHY”文化だけど、日本では“HOW”文化が主流なのが、嘆かわしいと仰っていますが、確かにそうかもしれませんね。好奇心」が薄いと、疑問(Why?)も湧かないし。
(きっと、「好奇心」というのは子供達の特権だけど、大人になれば、むしろ“煩わしい!”と思われるだけだからでしょう)

イトカワ [0423]
『「人類は21世紀に滅亡する!?」 糸川英夫著 徳間書房 1994年9月初刷 \1,600税込』(購入\105税込)
先の「戦争学」は読み終えて、今はこれを読み始めています。少し難しそうですが、これも、なかなか面白そう!例えば、色々な評論を「人生のなかの精神的栄養」と言って居られますが、栄養にしたいと思うかどうかは、受け取り手の考え方次第というわけです。
糸川氏と言えば、今では工学技術の第一人者です/でしたが、昔ペンシル・ロケットを開発されていた頃には、ユニークな発想が多かったせいか、氏を“変人扱いした記事”を読んだような記憶があります。
それは、今思えば、真に浅薄な見方だったわけですが、昔は何事も「常識的」なのが優遇されていましたから、そうしたユニークな「非常識」は、批判・非難もし易かったのでしょう。(ま、常識って、寄りかかり易い杖みたいなものでしょうから、つい多用してしまう)

戦争学 [0421]
『「戦争が嫌いな人のための戦争学」 日下公人著 PHP研究所 2002年3月第1刷 \1,300+税』(購入\105税込)
この本、半分まで読んだけど、大変面白い♪
切り口が鮮やかで、その解釈も、“あ!なるほど!”と納得させられる事が沢山あります。

人口密集地帯では、他種族と闘って生き延びないと、その種族は滅びるだけだし、まだ生き延びている種族は、そうした戦いに勝って来たからだそうです。確かに、それは歴史的事実ですね!
そうした中、争いを避け、奥地や辺境へ逃げて行った種族は、殆どが戦いが嫌いで優しい人達ばかりだそうです。
(最近、エンタメTV番組で紹介されている未開発地域の人達を見ると、そう感じますね。もしかして、日本島の住人も、大局的に見れば、そうした種族(の集まり)なのかもしれません)
で、戦争はなぜ起きるかというと、人口過剰が主因だそうで、それを抑えれば避けられるだろうとの事。
某隣国みたいに大きな国だと、国内での「地域の不均衡増大」(局地的人口増)で、どんな問題が起きるか分かったものではないから、油断は禁物ですね。また、某半島が「凶作で人口減」なら、当分戦争を仕掛けて来る危険は無いかな?
逆に、今の日本みたいに「人口頭打ち」だと、どれだけ戦争をしたくても、実際には出来ないでしょうね。
(出来ないから、したくない。でも、したくないからって、もう、何処かへ逃げ出すわけにも行きませんしねぇ。只管、押して来る隣国群に向かって、“ソコハ、ワタシタチノ、トチダッタ!”の繰り返しかなぁ?)

日本人は [0419]
『「なぜ日本人は日本を愛せないのか」 カレル・ヴァン・ウォルフレン著 大原進訳 毎日新聞社 1998年3月第1刷 \1,800+税』
この本は、私には大変難解で、何度も読み返している内に、次第に面倒になって来たのですが、一応最後まで読み切りました。
この方の意見では、「日本人は、正しい自分達の歴史(/自分達の成り立ち?)を持っていないから、“国”というものを知らず、だから愛せないのだ」と言われているように読めたのですが。
ははぁ、なるほど!・・・ 自分が子供の時に、親から、“愛情とはこういうものだよ!”と、陰に陽に教わって来なければ、人を愛することは大変難しいって事のようだと思えば、よく分かります。
昔の実話、オオカミ少年やオオカミ少女が、ついに人間社会に戻れなかったという事実は、その反証なのかもしれませんね。
それとは別の話題ですが、この著者によると、“日本人はギャンブラーではない”そうです。“日本人は(常に)予測可能な状況を好み、予期せぬ出来事に不意打ちされるのを恐れる”・・・ という事は、負けた時の事は考えたくもない!その備えも無い?って事か!・・・ で、悲しいかな!福島原発事故で使えなかった国産ロボットなどは、その好例(いや悪例か?)かもしれませんね。
ところで、借りた外国産ロボットには、幾ら位費用を払うのでしょう?まさか、上野動物園のパンダより安いって事はないと思うけど。


親のせい [0417]
『「いじめられっ子も親のせい!?」 田中喜美子著 主婦の友社 平成8年9月第4刷 \1,359+税』(購入\105税込)
第4刷までなので、多分ベストセラーになったのでしょうが、内容の多くは私自身も“その通り!”と頷きたくなる事ばかりなので、同意する人達も多かったのではないかな?(ただ、読んでいて、反論したい箇所は、所々あります)
この本では、(虐めがきっかけで)自殺してしまった男の子の例を挙げて、物質的には恵まれていて幸せそうに見えても、“いじめられっ子”には、学校にも家庭内にも居場所が無い!のだと言われています。
では、その家庭には何が欠けているのか?それは、母親の「子供の心を見る力」だそうです。
確かに、日本の親の多くは、あまりにも世間を慮(おもんばか)ゆえに、自分の子供の有りの侭の姿が見えず、保護も支援もしてやらず、逆に突き放して、“批判の対象”にすらしている。
それが、“躾(しつけ)”や“教育”であると勘違いしていることに、問題があるのだと、私も思いますね。

挨拶 [0415]
『「あわてるからあかんのや」 堤保敏著 天理教道友社 1993年12月第1刷 \1,200』
この本は、中を少し読んでから、買って来ました。(購入\105税込)
私は、“宗教”は、“趣味”か“鎮痛/快楽薬”の一種だと思っていて全く興味が無いので、出版社名を見て、一瞬買うのを止めようか?と思ったのですが。

しかし、この著者ご自身の考え方は、筋道と理屈が合っていて、納得する部分が多かったので、全部読んでみる事にしました。
読んで共感したのは、子供達には、『いろいろな失敗は、できるだけ小さいうちにやらせておいた方がいい ・・・ 多少のケガで済むことなら、構わず失敗させるべきだ。あらゆる危険から遠ざけて育てるより、はるかに自己防衛能力が身に付くし、他人の苦しみや痛みがわかる人間に育つ』とされている点です。(剣道道場を運営し子供達を教えて居られるので、机上論でなくて、多分に実践的なものだろうと思います)

リーダシップ [0413]
『「歴史に学ぶリーダーシップ」 渡部昇一著 致知出版社 平成13年6月第2刷 \1,600』(購入\105税込)
近頃、よくトップ(特に、日本国首相)のリーダ・シップが話題になっていますね。
あれこれ読んだり、考えていたりしていて、ふと、今の日本国には、もうリーダ・シップを持つ人は、不必要なのでは?と思ったり。
と言うのは、何を成すにも(十人十色ならぬ、)“千人千色”だし、それぞれに自律・自立的に物事が出来る人達は、特に別途リーダなど必要としないでしょう。(居ると、反って邪魔か?尤も、“幹事役”などは、要りますが)
リーダが必要な場面って、大抵「目的」や「目標」がはっきり&集約している時で、そんな時になら良いリーダが出て来るものです。(出て来なければ、必要が無いってこと!でしょうね)
(まぁ、何にでも、リーダは不要だってことではないのですが、良いリーダが出て来たらラッキー!位に考えておかないと、失望するのが関の山!)

反面教師? [0411]
「表題」と「序」を見て買ったのですが、この本は、私の眼、頭では消化不能でした。(購入\105税込)
豊富な個々の具体例は、よく分かるのですが、それが何の説明に使われているの?とか、各節の出だしは期待出来そうだ!思ったのに中身はずるずると別の話に変わってしまっている? しかし、逆にこれを見ながら、“はぁ〜、私の文章も、こんなのだろうなぁ”と、自己反省しきり。
例えば、長谷川慶太郎氏の文章は、知らなかった事でも、読むと、すっと意味が分かって納得も出来るし、反対意見も出て来る。
それは、多分、主張されている事が明快だからでしょうね。
ところが、この本では、“(俺は)こんな事も知っているぞ!あんな事もあるぞ!これはこうなんだ!だから、あれはこうなんだ!”と、矢鱈捲(ま)くし立てられている感じがするだけで、ちょっとも共感する余地が無い。
(実は、私の記事も、多分にそういう気・面がありそうなので、他を責めるわけにも行かず苦しい処。自分の備忘録として書くだけ!と割り切ってはいるのですが、さりとて、見/読み苦しくって皆さんに嫌がられるのも嫌だし...)

国のかたち [0409]
『「この国のかたち 一、二」 司馬遼太郎著 文藝春秋 1986〜1989年 各\1,000』(購入各\105税込)
司馬遼太郎氏の小説は、ほぼ読み尽くしたかなと思っていたのですが、実際はこうした随筆類は殆ど読んでいませんでした。orz
これを拝見していると、日本って、何となく無個性の国とのイメージがあったのですが、そうではなくて、実に雑食的で消化力の強い国かもしれないなぁと、見直したくなりました。
入って来たどんな文化でも、自分達流に造り替えてしまう能力は、類稀(たぐいまれ)らしい。
これは、多分、大陸と陸続きでない島国である事が幸いしたのだろうと思いますが、圧倒的な支配者による文化の強制を受けずに済んだから、かもしれませんね。
(さて、戦後の「米国文化?の影響」は、どうだったのかな?...尚、この二は、病院での結石検査待ちの間に読み切りました)

早期教育 [0407]
『「親は子に何をしたらいいか 幼児のための本当の“早期教育”とは」 須田亨著 フォーユー 1996年11月初版 \1,400』 (購入\105税込)
BOOK-OFFの書棚から抜き出して、「はじめに」をちょっと拝見して、『三歳までが勝負』、『タダの父親』、『なかなかいいセン行ってる』と書かれているのが気に入って、買って来ました。
本当の子育ては、総ての親達が(単なる“義務的”や“愛玩的”でなく)、「観察」しながら、「知恵」を絞りながら、「愉しんで」するものだろうと、最近おぼろげながら分かって来ました。
だから、その育て方は十人十色、千差万別、個々別々だろうと思うし、「親達の意識」や「採用する手法」にも、独自性があるでしょうから、実話(実際に起きた事や、実際に対処した話)には、特に興味をそそられます。
でも、一番問題なのは、そうした事に無関心な親達の方でして、何でも『生まれつき、そうなんだから、それでいいのだ♪』で片付けてしまう親達、それが、今では公害になりつつあるのでは?

事故の確率 [0405]
『「決定版原発大論争!」 別冊宝島編集部編 宝島社文庫 1999年12月第1刷 \562+税』(購入\105税込)
この本では、「原子力発電(原発)」の危険性問題点、課題などが、主に反対の立場から、細かく丁寧に指摘されています。
でも、残念ながら、「原発による収益」や「社会貢献度」に対する「統計的な事故発生率」や「事故による被害人数、総金額」などの確率論的な比較・検討が無いですね。
『事故』というのは、絶対起きるものなのですが、議論は、いつも「絶対安全か否か」から話が始まりますね。(違うっちゅーに!)
「原発」での「大事故の発生確率」は意外に低そうに思えます。(今までに4,5件?)
今回の“東北震災”による「原発事故」は、稀に起きた事故でしたが、その被害は甚大のようです。
これは、喩えると「ジャンボ宝くじ」と似ていませんか?
当る確率は数百万分の一だけど、当選金額は大きい...「宝くじ」は当れば嬉しいのですが、逆に、「原発事故」は、例え稀であっても、当って嬉しい人は居ないでしょう。だから、規模が大きいと大騒ぎになる。
でも、「確率の話」で考えれば、どちらも似ているようですよ。
だから、原発の有効性・無効性は、単純に個々の案件の良い悪いだけで断定すべきではない、と思いますね。リスクは大きいが、頻度は小さい、貢献度は大きい。でも、単純に「宝くじが、好き/嫌い」の問題もありますからねぇ。効率は良くても、リスキーな方式は、好まない人だって多いし

個の時代 [0403]
『「デフレ頭脳を持っているか」 長谷川慶太郎著 青春出版社 平成十年編纂 \1,400+税』(購入\105税込)
表題を見ると、一見「経済関係の本」のように見えましたが、やはり中身は『現実的哲学』!(?・・・ そんな言葉は無いでしょうけど、昔の“デカンショ(節)”よりもずっと分かり易い哲学書ではないかと)
大変明快に書かれているのは、『魂の空白を満たすための「大義」も「理想」もいらない。これからは「個人の強さが求められる時代」だ』ということ。
これは決して、“大義や理想を、全部捨てなさい”と言われているのではなくて、「それより先に、(人)の存続を前提にすべきですよ」と理解するのが正しいのだろうと思います。
個(人)が確立出来れば、その後で改めて、テーマ毎の大義や理想が出て来てもよいでしょうね。
(こんな本を、若い人達が読んでくれればと思いますが、哲学って歳をとってからの学問だという説もあったので、勧め難いが...)

安全神話 [0401]
東北の福島原子力発電所の事故に関連して、「原子炉周りの構造・工作」が大変杜撰(ずさん)で、“安全性などは、全く期待出来ない!”といった記事を拝見した事があります。
実物を見ていないから(私の)想像だけなのですが、見えない所は、確かにそんな『蜘蛛の巣配管だらけ』だろうと思いますね。
私達は、「現代の機械装置類は、美しくて整然としていれば、故障は起きず、常に安全・完璧なのだ!」と思い込んでしまっていますが、でも、それは『安全であって欲しいだけの神話』だと思います。
安全なんて、お天気の確率みたいなもので、必ず破れます
私は、むしろ、原子力発電システムの安全性に関しては、そうした装置類の不様さよりも、「燃焼済み核燃料群」の「安全な後始末方法」が確立されていないのに、まだどんどん「廃棄核燃料群」を増やし続けている事の方が、ずっと心配です。
生産装置にはお金を掛けても、廃棄物にはお金を掛けようとしないのが世の常ですからね。
この狭い日本国内で、使用済み放射性物質が貯め切れない程に溜まって来たらどうするかって事の方が、ずっと重大事だと思いますが。(何処か他所の国へでも、捨てに行きますか?行けますか?)
つまりは、溜まり続ける日本国の「赤字国債」と同じですね。

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