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物事追及集 二〇一六年十月版



善き書店員  「十月三十一日」
『善き書店員 木村 俊介著 ミシマ社 2013年11月 1刷 ¥1、800+税』 (購入¥200税込み)

この本は、私と同様な一般人の日常の“おしゃべり”を収録したものらしく、あまり面白くなかった。
(新しい発想や知らない出来事を拾うために)本を読むことが好きな人達の話...ではなくで、本を売ることを仕事にしている人達の日常だし、別に“本を売る仕事”が好きでもない限り、読んで/聞いて参考になる事でもなさそう。

勿論、精魂傾けて/熱心に普通に仕事をしている人達は、外から見ていても気持が良いものだが、本来、皆がそうあるべきだ!と思っている私から見れば、あまり参考にはならない。
むしろ、そうした人達の数の方が問題かもしれないが。(苦笑)

まぁ、こんな本がベストセラー(そうではなさそうだが、)になどなっても困るなぁ...と思う気持の方が強かった。(著者には申し訳ないが)



鶏頭狗肉  「十月二十九日」

先日、ヤフオクで買った“中華セル”(18650? 図1)の中味が、「真っ赤な偽物」なのに、その説明文が、「偽看板=鶏頭狗肉」で、実に“巧みな逃げ口上満載”なのには、むしろ感心してしまった!
普通に読めば、「嘘」は書いていないのだが、例えモノが「不良品」でも「尺度」が巧みに違えてあって、ちゃんと売主の(見掛け上の)責任や(実)損害は回避出来るようになっているって寸法だ。(苦笑)

問題の“注意事項”(図3<クリック>)だが、実は、私達が、“「定量的な評価や判断」をしない/出来ない癖”を巧妙に衝いているのだ。
曰く、
リチウムイオン充電池 仕様
品番: 18650(保護回路付)
公称容量: 8800mAh
※電池容量の数値は保証するものではありませんので予めご了承願います。


こちら(買い手)側で調べた結果、セルの能力・容量は、公称容量:8800mAhには、はるかに届かないから不良品だ!と指摘したのだが、
敵は、『...値は保証はしないって云ってるでしょ!...だから、(残念ながら?!)品物は“不良品”ではないです!...よって、交換、返金などはしません!』...というわけだ。
ということは、まったく“充電・放電能力が無いモノ”でも、“値は保証はしない!だから、不良品ではない!”と云うつもりだろうな。
具体的には、
「※電池容量の数値は保証するものではありませんので予めご了承願います。」と記載させて頂いており、
残念ながら今回の事例では返品・交換等の対応の対象とはなりません。


という、売主のご返事だったが、“残念でした!”とオマケつきだった。(鼻笑)
こちらも、予め“損金評価”(各品百円相当で、計:三百円 損:九百三十円)はしてあるから、鼻で笑える体勢で待っていたのだが、“案の定の返事”だったわけ。

実は、こんな“巧みな言い逃れ”は、悪徳商人の常套手段らしく、昨今、シナ・中国に進出しようとしたり、してしまった日本企業が、相手側から“大損害”を被せられる時の口上に似ているらしいが、そちらの方は“笑い事”では済ませないほどの打撃だろうと思う。
何にしても、私達日本人が、外国人や外国製品と付き合う際には、“定性的”だけではなく、「定量的な見方・判断」が、是非必要だな!



グーグル秘録(続)  「十月二十七日」
『グーグル秘録 完全なる破壊 ケン・オーレッタ著 土方 奈美訳 文藝春秋』 (承前

読んでいる途中から、グーグルの創始者達が目指した理想が、はっきり見えて来る。
お金万能主義の現代に、米国には、まだこんな無欲な、だが強烈な目的意識を持った人達が居るんだってことが分かった。
内容に、こんな節がある。
...「二人は最高の検索エンジンを創るという使命感を抱き、最も重要なのはユーザーであることを初めから理解していた」と言う。...
グーグルの場合、強烈な使命感と、無料サービスを提供していることから、収益マシンを目指そうという意欲はまったく感じられなかった。...

ここを読みながらを、米国のビル・ゲーツ氏や日本のホリエモン氏は“お金儲けの天才”だったかもしれないが、“何かの使命感”を持っているとか、“何かを目指す天才”ではなかった!ということを思い返していた。

それとは別に、先日、ノーベル賞を受賞した大隅良典氏(東京工業大栄誉教授)が、「この研究をやったら役に立つというお金の出し方ではなく、長い視点で科学を支えていく社会の余裕が大事」とし、「それがやれなければ日本の研究は貧しくなっていく」と嘆いて居られたそうだ(朝日新聞記事2016年10月4日)が、私の見方は少し違う。

私は、「人の役に立つもの・こと」を目指すのは、そんなに悪いテーマではない思うし、グーグルの彼らだって、初めの頃は、お金が無くて四苦八苦していたのに、安直な経済支援や買取りは断っていたそうだから、要は当人達に(昔は流行った)“ハングリ精神?”(=目的意識、使命感など)が有るか無いかの方が重要なのではないか、と思う。
つまり、お金より、所謂“根性・性根”を育てなければ、幾ら支援しても無駄になるばかりだろう。

核燃料リサイクルを狙っている「もんじゅ」の廃炉を、未だにどうたらこ〜たら云いながら引き伸ばしているようだが、あれは委員会の指摘通り“出来ない組織や人材”にやらせるものではない!
組織・人材がダメなら、一旦諦めて、“テーマ設定”や“やり方”を考え直すべきだ。
目的が先ではなくて、それを必ずやり遂げたい!金が無くてもやりたい!という人材の方が、先だ!



グーグル秘録  「十月二十五日」
『グーグル秘録 完全なる破壊 ケン・オーレッタ著 土方 奈美訳 文藝春秋 2010年5月 1刷 ¥1、900+税』 (購入¥200税込み)

この本は、面白そうだ!...というか、読み始めて数ページで、「Google」が何を創り出しているのかを、ワクワクしながら読んでいる私自身に、気が付いた。
Google」そのものも興味深いが、この著作からも色々啓発されることが多そうだ!

因みに、読みながら思ったのは、「Google」は、“映画を観ている観客自身の立場”を与えてくれる手段を提供するものではないかということ。
例えば、探偵が犯人を追い詰めて行く過程で、観客は第三者的な位置から、既に事件の全貌が分かって(居るつもりで)居て、その真犯人すら知っている...という立場、あるいは、吹雪で遭難する人(達)を、傍・上空からハラハラしながら見守っている...という観客の立場に置かれるわけだ。
見たいと思うこと、知りたいと思うことを居ながらにして、「Google」は、瞬時にして提供してくれるのだから、そんな気分になるわけだ。

逆に、隠したいことや、丸出しにすれば無意味になることでも、容赦なく曝け出されてしまう怖さもある。
それが嫌さに、シナ・中国政府は、“報道管制?”を敷いているらしいが、さてどうなることやら...(笑)
この本は、連続ドラマを見ているつもりで、読み進められるものかもしれない。



「反日マスコミ」の真実  「十月二十三日」
『「反日マスコミ」の真実 西村 幸裕責任編集 (株)オークラ出版 2006年12月 1刷 ¥1、200税込み』 (購入¥200税込み)

この本を見ると、朝日新聞NHKTBSなどは、“反日左派”に偏向し過ぎで、救いようが無い!と、具体的な実例を挙げて批判・非難している。
尤も、多くの筆者達が書いた記事群の全部が全部そうでもないが、その多くは、謂わゆる“バカは死ななきゃ直らない!”と思っている様子だ。(まぁ、実はそうらしいが。苦笑)

でも、中には、考え方が狭いだけか、幼稚なだけの記者達や編集者達も居るようだし、古いコチコチの人物が上に居れば、どうしても企業風土として、“反日モドキ”や“左派モドキ”になってしまうのではないかな?と思う。
反日」といっても、自分(達)が何をしているか、何が「反日」になるのかが、よく分かっていない連中も結構居るようだ。

自分達の納めて来た税金や労力(それに血や汗)が注ぎ込まれて来た日本国土のインフラなんて、空気のようなもので、ちーとも“有り難い・大切なモノ”とは意識していなくて、他人や他国人達に、“只/無料でどーぞ、どーぞ!”って、お人好し過ぎる姿勢も、一種の「反日」なんだけどさ!
それは、自分の足元しか見ていない(狭視野主義)、あるいは、自分自身のことしか考えない(利己主義)で、その他のコトは“他人の話の受け売り”(無脳主義)などで済ませようとするからだろう。
それと、私達日本人は、「この先祖伝来の土地」で生まれ育って来て、その「耕作民族」の遺伝子を引き継いで来ていることも、まだよくは知らないってことだろうな。

だが、異質な「牧畜民族」と同化出来る(人は皆同じだ!平等だ!)と考えたり、皆が融合して“世界市民”になれるはずだと、安直・淡白に考えていては、いずれは潰される側の民族になってしまうだろう。
...「平等博愛主義」って、戦後日本人に対する(米国の)洗脳効果が見事に効いて来たわけだが、その米国(や独国)でさえ、今は変わりつつある。(トランプ効果、反メルケル気分)

異種民族とは容易には同化は出来ないのに、それを“人間皆同じ”とか唱えて、敢えて“無理な同化”を叫ぶのも、「無意識の反日」だってことだ。それに、「区別」を、「差別」だと勘違いして、言い募る連中もその類だろう。
オリンピックは、楽しいイベントだが、日本人選手が他国の選手に負けているのを、好んで喜ぶなら、そいつはやはり日本人ではない!ってことでもある。



宰相の資格  「十月二十一日」
『宰相の資格 櫻井 よしこ著 産経新聞出版 平成23年2月 1刷 ¥1、400+税』 (購入¥200税込み)

この本では、菅直人鳩山由紀夫小泉純一郎安倍晋三福田康夫麻生太郎各氏の、日本国の総理大臣としての資質、能力を分析、評価されている。
ダメ男はやっぱりダメ!と、明快に指摘・批判されているので、読んでいて小気味は良いのだが、では、なぜこんな総理が選出されたのか?どうやれば、私達国民は、ダメ男総理を避けられるか?については、残念ながら解答が無い。

それに、彼らのすべての業績は(過去の)“結果論”であって、もしその総理が他の行動を選択していたら...などということは出来ないし、しても無意味だから、過去を振り返っても、あまり参考にはならないような気がするが。
結局、私達国民は、現時点での状態や行動で判断するより仕方が無いわけだが、やはり見るべきは、その人物が、これから何をしようとしているか?(つまり、ポジティブ・ポリシー)、何をしたくないと思っているのか?(つまり、ネガティブ・ポリシー)を見ていれば、一国の宰相としての有用性、無用性が分かるのではないか?
安倍晋三氏の場合、日本国が世界に出て行ける(能力を持っている)ことを、自らがポジティブに示して見せた点で評価出来る、と思うのだが。
(今の野党連中は、皆、内弁慶ばかりで、クソの役にも立たない)
..どうでしょう?櫻井さん?



中国崩壊前夜  「十月十九日」
『中国崩壊前夜 長谷川 慶太郎著 東洋経済新報社 2014年5月 1刷 ¥1、500+税』 (購入¥200税込み)

BOOK-OFFで、政治経済関係の棚を見ていると、相変わらず「日本の経済は立ち直って躍進する」とか、「中国は直ぐに崩壊する」といった表題の本が沢山並んでいる。
時期まで書いてあるけど、既にそれらの時期は過ぎ去っているから、それらの本(著者)が、世の中を見誤って居るか/居たかが良く分かるというものだ。(笑)

その原因が、著者の見誤りに拠るものか、はたまた、人間界、自然界が意地悪で、それに反するように動いて来たのかは、(私にもよく)分からない。
「東南海地震」や「富士山噴火」だって、待っていても起きず、待っていない「九州地域の大災害」が振って湧いたように起きたわけだから、もしかして、意識して騒いでいると起きないのではないか?(苦笑)
だから、この「中国の崩壊」も別の形か、あるいは、なし崩し的に徐々に形が変わって行くだけ、ではないかと思う。
(つまり、...10年先に、残念でした!となる。苦笑)

興味深かったのは、この著者が、実例を挙げて、シナ・中国政府と“人民解放軍”との乖離を指摘されていることだ。
私も、その点が以前から気になっているのだが、感覚的なもので、実情を知らないから、どうこうは言えなかったのだが。
でも、シナ・中国中央政府が、軍部を抑え切れないと碌な事にはならないのは歴史が示すところだ。
この著者によると、人民解放軍の幹部らが、アングラマネー、つまりシャドーバンキングで蓄財を図っているので、シナ・中国政府は、それらを抑え、軍部に対する主導権を掌握したいと考えているそうだ。
それに、先日のニュースでは、習近平氏は、“盛んに、各軍部を視察に廻っている”とあったが、そうした軍部掌握の一環なのかな?

それに、シナ・中国の人民解放軍には7軍区があるらしいが、もし、シナ・中国が崩壊でもしたら、古代の春秋・戦国時代の再来で、そうした軍区同士が“無節操に争う独立国群”になってしまう恐れもあるらしい。
まぁ、そんな方が、私達の日本国の防衛には、良いかもしれない。
直接の敵対相手としては、太平洋側の瀋陽軍区(ハルピン、配下に北朝鮮)か、南京軍区(上海)か、(やや南だが)広州軍区(広州・香港)に絞れるからだ。
尤も、こうした状況(シナ・中国崩壊)も、皆が想定していると、起きない可能性が増えて来るかも。(苦笑)



中国の鳥人  「十月十七日」
『中国の鳥人 椎名 誠著 新潮社 1993年7月 1刷 ¥1、350税込み』 (購入¥108税込み)

BOOK-OFFで、“鳥人”だけを見て中味を見ずに買って来たのだが、完全な失敗だった!
日本の鳥人”で「浮田幸吉」という人を思い浮かべたのだが、中国にもそんな人が居たのか?...と興味をそそられたのだが、他にも幾冊か、買いたい本を抱えていたので、帯の文言も良く見ていなかったのがいけなかった。

買って帰り、読み始めて暫くしてから、“何だ?これは?”となった。
本物の人間(?)が羽を生やして空を飛び回るという“大人のお伽噺”ではないか!
丸っ切りリアリティが無いのと、技術的にも人間性にも魅力が無い話で、完全に期待ハズレだった。
なので、後の幾つかの短編も読む気がしなくなった。
まぁ、他にも読んでみたい本は、幾冊も買ってあるから、別段困ることもない。
ただ、これ、捨てればいいだけの話なんだが、後味が悪かった分はマイナス点だなぁ。



林蔵の貌(上)  「十月十五日」

『林蔵の貌(上) 北方 謙三著 集英社 1994年6月 1刷 ¥1、600税込み』 (購入¥200税込み)

(私は寒がりのクセに)北国の蝦夷地(北海道)などの探索話や冒険譚には強く惹かれる。
そして、伊能忠敬間宮林蔵といった人達には、探検家というより、地道な地図作り職人気質を見ているような気がしていた。
ところが、この本では、間宮林蔵という人物が、意外な顔(貌(かお))を持っていたのだという。
小説だから、この人物のそんな描き方もあるのか?!と思ったのだが、この著者はきちんと参考資料も挙げられていて、実は、全くの作り話でもないらしい。

読みながら、厳しい北(国)の冬の自然に耐えながら生き延びて行く“逞しさ”や“厳しさ”は、私達人間の原点に潜んでいるモノ(?生衝動)を示してくれているのではないかと思った。
同時に、彼が、自然に対するのと同様に(他の)人間や人間社会に対しても、容赦の無い対応の仕方をすることにも、“共感”とまでは行かないが、“理解”は出来るような気がした。
著者は、そうした(両面の)“厳しさ・強さ・醜さ”を、“凍傷で崩れた貌”で表現したのではないか。(なるほどなぁ!と妙に感心させられた)



生命の意味論  「十月十三日」
『生命の意味論 多田 富雄著 新潮社 1997年4月 3刷 ¥1、500+税』 (購入¥200税込み)

私は、「遺伝子」についての色々な研究や解釈の仕方などを教わってから、随分、ものの見方・考え方が変わった(整理し易くなった)...というか、啓発されることが多かった。
(「遺伝子研究」様々だ)

この本の中にもあるが、生物の多くは、何もしなければメス/女性が生まれて来るのが、一番順当らしい。
オス/男性の方は、際どい切っ掛けによってでしか生まれないし、上手く成長しないのだそうだ。...そういえば、女の児は育て易く、また早く成長するが、男の児は育て難いと言われているが、それか?
男というのは一種の異物であって、偶々必要があって存在が許されているようなものらしい。
この著者は、こう仰っている。
...『女は存在、男は現象』...
そういえば、昔の川柳(?)に「亭主元気で留守が良い」とかあったが、亭主は“現象”ということか。(苦笑)
だから、本来なら男性種は、貴重品と言えば貴重品なんだが、さりとて今時はペット程にも大事には扱われない?
...昔アッシー、貢くん、今は家政夫、イクメンか。

昔は、集団・種族として生き残るために、予見力や戦闘力のある男性が、強固な集団・社会を組んで、外来の敵と戦う保護・守護役として存在していなければならなかった。
だが、昨今の(平和な)日本では、“女は存在”という建前だけで生延びられる世の中だ!と皆が誤解し/思い込んでいるので、か弱いはずの女性達が大きな顔をして日本社会を牛耳っているとか。
でも、私の見るところ、男性が組み立てた社会を、女性は、多少はそのまま維持するだろうが、やがてはそれを壊しながら食い尽くして行くようにしか思えないのだが。
...女性の“リスク・テイカー”ってのは、遺伝子学的・生物学的には、ほんの僅かか、むしろ稀な存在ではないか。



インチキ科学の解読法  「十月十一日」
『インチキ科学の解読法 マーティン・ガードナー著 太田 次郎監訳 光文社 2004年8月 1刷 ¥1、700+税』 (購入¥200税込み)

“インチキ科学”とはどんなものをいうのか?一種の“都市伝説”のようなものを指すのかな?と買ってみた。
なーんだ、話の大半は、米国内で流行っているローカルで、オカルティックな、謂わば“宗教・迷信”に属するような内容ではないか!?
日本で言えば、“狐つき”とか“雷様のヘソ取り”とかいった程度の内容なのに、コトを大袈裟に、しかも真剣に大勢に向かって語られるし、またそれに聞き入る人達も大人数のために、それらを突き崩す/否定するには、こんな風に“科学扱いにして、科学的な手法−解説”でやるしかないのかな?
勿論、この著者の分析は、博識を活かして、多分に論理的・科学的ではあるのだが。
私にとってみると、テーマは眉唾風なモノばかり。
因みに、扱われているテーマは、
 −UFO、他
 −伝記に書かれていないエジソン、他
 −ベツレヘムの星、他
 −アダムとイブに、ヘソはあったか?、他
 −復活する尿療法、他
 −カルロス・カスタネーダの亡霊、他
 −懲りない預言者たち、他

いずれも、旧約、新約聖書がらみの話が多い。
ということで、途中で、面白くなくなって投げ出した。



私の喧嘩作法  「十月九日」
『私の喧嘩作法 屋山 太郎著 新潮社 2000年7月 1刷 ¥1、400+税』 (購入¥200税込み)

いやぁ!この著者は、“活き”が良くていいねぇ!
お父上の仕込み(=教育)も良かったのだろうけど、何事にも男らしく、相手の不正義成敗には“喧嘩も辞さじ”という姿勢は、大切だ!
何せ、それは「欧米風の個人主義」の基本だもんな!
だから、この著者は、(へんな言い方だが)世界にも通用するはずだ!

他方、他の日本の論客やジャーナリスト達は、世界に出したって通用しないだろうな。
だが、皆、それに気が付かず、単なる「内弁慶」でしかない。
その証拠に、朝日・毎日・東京新聞などの論説や社説を見ていると、飲み屋で管を巻いてる“万年サラリーマンの古臭い愚痴”とあんまり変わりないもんな。
先日のリオ・オリンピックの閉会式での「安倍マリオ」に対して、韓国の新聞は「悔しいが、上手く日本をPRしやがった!」と批評しているのに、朝日・東京新聞は「違和感がある」などと、自分(達)の“内向きの劣情”しか書けないお粗末さ。

それに、日本全体で見ても、例えば、日本国憲法の前文や第九条なんてのは、まるっきり「内向き」で、世界の戦争、平和なんてのも他人事のようにしか、考えてないもんな。
“喧嘩は痛い!怖い!嫌!だから、先に武器を捨てて丸腰になりますわ。世界の皆様、私達に安全と平和を恵んで頂戴!”って宣言してるなんて、軟弱さ、卑屈さ加減にも程がある。
それにも増して、“無知・愚かさ”の方が、余計に“一見平和風な自滅(≒奴隷なって、縛られた平和?)”を招いてしまうだろうと思う。

とは言っても、私達日本人が一足飛びに賢明さや強さを獲得することなど出来はしないから、少しずつでも、次世代へ引き継いで行って改善して行かないと!
その意味で、こうした著者や著書は、大切だと思う。



極限飛行、危機に立ち向かう心  「十月七日」
『極限飛行、危機に立ち向かう心 加藤 寛一郎著 講談社 1993年3月 1刷 ¥1、456+税』 (購入¥108税込み)

この著者の「零戦の秘術」は面白かったので、この本も買って来た。
でも、前半は講義録のようで、ちっとも面白くなかった。

興が乗り出したのは、逸話が挙げられ出した第5章辺りからで、超音速ジェット機の上昇技法が紹介されている処からだ。
早く高空に達するためには、一度飛行機を急降下させるか、水平飛行をしてから再度上昇するという、奇妙な上昇方法が最適解だそうだ。(へぇー!)

この本の後の章で出てくる坂井三郎氏の零戦の操り方にしても、急旋回時に一本調子で飛行機を回そうとするのではなくて、(無駄と見える)“横滑り”や“左右首振り”などを混ぜて、最小半径で旋回するという。

こういう“技”を“玄人の極意”などと言うのだろうが、私(達)凡人でも、決して真似出来ないわけでは無いだろうと思う。
少しでも、工夫して日常生活に取り入れれば、面白いのでは無いか?
・・・で、今たけなわの「運動会の綱引き」を思い出した。
強いチームが引く時は一本調子でなく、相手の引きの弱い瞬間を読んで(?多分)、リズミカルに引いている様を、良く見掛ける。

何事も、一本調子(硬直した頭)=従来の常識・定跡通りでやり通す/過ごすのではなく、現実の状況を素早く把握・判断して、それに適した対処をすることが重要だと分かる。



ヨーロッパ鉄道旅行  「十月五日」
『ヨーロッパ鉄道旅行 宮脇 俊三著 日本交通公社 1996年8月 1刷 ¥1、456+税』 (購入¥200税込み)

旅行記といえば、江國 滋氏の著作が気に入っていて、BOOK-OFFを覗く度に、探してはいるのだが、なかなか出会えない。(並んでいるのは、娘−江國 香織さんの作品ばかり)

今回は、旅行記の纏められた棚で、この本を見掛けて、買ってみた。
読んでみて、悪くはないのだが、私には退屈だった。

何時も思うことは、こうした紀行文で、列車で通り過ぎる途中の場所の地名や逸話が沢山書けるってのは、どんな手法なんだろうと思っていたが、筆者が紹介してくれている。
家内が...。何か珍しいものが車窓に現れたら揺り起こしてやろうと思うが、その可能性のないところである。鉄道旅行作家たる私としても、地図と時刻表と地名事典さえあれば、実際に乗っても乗らなくても、書くことにかわりはないだろう。だから...
うーむ、“ねたばらし”でネタを見た感じ。
私は、(ある場所に)物があって人が居て、旅行者がそこに行って始めて“起きる出来事”などの方が面白いと思うタイプなんだが、“地図と時刻表と地名事典だけ”ではねぇ。

そいや、江國 滋氏のは、その地での“俳句の発句”があったり、沢木 耕太郎氏の「深夜特急」では、“人達との出会い”があって、常にその土地々々で起きる“出来事”(=アクション&リアクション)があって面白かったなぁと、思い返している。



騎馬民族は来なかった  「十月三日」
『騎馬民族は来なかった 佐原 真著 NHKブックス 1993年9月 1刷 ¥806+税』 (購入¥200税込み)

一時、江上波夫氏の仮説−北アジアの騎馬民族が流れて来て日本を征服し、王朝を立てた−で騒然となったことがある。
そして、当の江上氏は、その功績で“文化勲章”まで授与されたそうだ。(私は寡聞にして、それは知らず)
だが、その後徐々にその仮説は否定され、(小説としては面白かったが、)学説としては廃れることになったはず。

この著者は、第II章(?)の終わりで、こう書かれている。
...ナチス=ドイツの宣伝相ゲッペルスが「嘘も百回言うと真実になる」といったのを思い出します。一方、上説に反対する人は散発的にしか声をあげない。「そして誰もいなくなった」。そこで私は立ち上がったのです。...

この著者は、江上氏を、一応持ち上げてはいるのだが、その非科学的な証明の仕方や論法を、別の面から検証・論証し、細かくかつ丁寧に否定されているので、この「騎馬民族否定説」は、素人でも実に良く分かる。

そもそも、歴史的に見ると、“騎馬民族”などというものは、居たとしても「畜産・遊牧種族」の一部(の戦闘集団?)に過ぎず、生活の基盤を「畜産」に置くか「農耕」のいずれかに置かない単独の民族・グループなどは考え難い、ということらしい。

それよりも、この本は読み進めるにしたがって、「畜産種族」や「農耕種族」の歴史的な話が色々出て来て、大変興味をそそられる!
「畜産種族」は、食べるためと乳を取るために家畜を飼うのだが、餌が枯渇する冬になる前に、それらを処分し保存食(干し肉、ソーセージなど)に変える習慣があったという。
そうした処分(屠殺や解体)には、幼少の家族達も参加したので、家畜の処分(血や内蔵の腑分けなど)にもそれ程抵抗は無かったらしい。
都市生活者が増えた昨今では、もうそんな傾向・風潮も激減したのだろうが、さりとて、「農耕種族」の私達日本人が“血”を見てパニックになるほどには、畜産種族(欧米)の人達は動じないらしいが。

ところで、この著者は、この本・論文を“私”は教わったとか、“私”はそう聞いているといった、“一人称”で書いて居られる。
私自身(我楽多苑で)もそれを心掛けて居るのだが、論文では珍しいのではないかと思う。
(が、そのことについては、長くなるので、また別の機会に考えて見たい)




どがんね  「十月一日」
『どがんね 古賀常次郎詳伝 佐保 圭著 日系BP 2013年6月 5版1刷 ¥1、200+税』 (購入¥108税込み)

“どがんね”とは佐賀弁で、しゃべる主人公の口癖“どうかね?”のことだという。
私は、戦時中の疎開経験で、広島弁が多少分かるので、この言葉も直ぐに理解出来たが。

しかし、この主人公−古賀氏が為した発明・特許や社会福祉事業などよりも、私が強烈な印象を受けたのは、“(曲がらずに)堪える、耐える”ということだ。
「堪える」とは、苦痛から逃げようとせず、それにじっと耐えながら、“普通人の生き方”を維持し続けるということだと思う。

私達並みの人間は、残念ながら、とてもそんな事は出来ない!
直ぐに、そうした苦痛・苦悩苦労から逃げ出すか、それに負けて“非普通人”になってしまうのがオチだろうな...と思ってしまう。

また、癌になった人の人生観が、がらりと変わるって話を良く聞くが、その際に、“何に耐えるか?”がポイントではないかと思う。
苦しい癌治療にいやいや耐えるか、それとも、癌?当然だろ!と平然と耐えるか。

この人物の話は、貧乏や父親の冷酷さに耐えたことなのだが、世の中には、こうして“耐えることが出来る人”も居るってことで、私達も力づけられる。
この本を読むのと前後して、「Gigazine記事−Cow killer」を拝見した。
“何を、そんなバカバカしいことを!”と思う反面、“意思・意欲を持って、耐えるなら、結構耐えられるもんだなぁ!”と感嘆。

私などは、「耐えて、尚且つ、前向きに歩む」、そう努力することが、“生甲斐”...とまでは行かないだろうけど、(男の)“美学”ではないかと思っている。
私も、これと似た気分で、程々の形で自分の日常に役立てようと思っている。



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