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物事追及集 二〇一七年六月版



聖徳太子I 仏教の勝利  「六月二十六日」
聖徳太子I 仏教の勝利 梅原 猛著 小学館 昭和55年3月 1刷 ¥1、200』 (購入各¥108税込み)

実は、これを読み始める前に、同じ著者の「聖徳太子II 憲法十七条」を読んでいて、途中で、こちらの本をBOOK-OFFで発見!
当然、こちらの方が先だろう!ということで、今2/3ほど読み進めて来た。

内容は、日本書紀や古事記、その他古書からの引用文が多く、すらすらとは読めないのだが、引用が適切なのだろう、“なるほど!”と納得させられること/箇所も多い。
この本について言えば、学術書なのだろうが、素人にも読み易く、(面白可笑しく書いた作り話などではなく、)過去の事実をありのまま、丁寧に掘り起こそうという著者の意図が良く分かる良書だと思う。

仏教は、“きらびやかな大陸文化”という衣を纏って、半島経由で日本に輸入されたもののようだが、それの“政治的利用”で、権力闘争の道具としても使われたようだ。
仏教は、一時的には興隆をみるが、実は、“仏教の教え=非殺生”は、権力者(や非信者の一般庶民)にとっては厄介な話であり、敵を殺さねば、自分(達)がやられる場合には、この教えは何の救いにもならないからだ。
大陸や朝鮮半島では、熱烈な仏教信者であったために、仏教に滅ぼされた王(達)が居たそうだ。結局、信者となった王達は、善意で国を治めていたのだろうが、外敵から悪意で攻められると、直ぐに、国が瓦解してしまったというわけだ。(オソマツ!)

今の日本国憲法の第2章第9条の話も、そのまま当て嵌まる。
“...国の交戦権は、これを認めない”って、世界中の皆が仏教信者なら、それでも良いかもしれないが、昨今の敵/相手に“(仏教の)非殺生”をお願い/期待しても、先ず“せせら笑われるだけ”だし、今の日本の私達(非信者)には甚だ迷惑な話だ!
というより、今の護憲信奉者らには、私達に“非戦という拷問”を強いる権利があるのかどうか?そのことを先ず問わねばならない!



楽毅  「六月十日」
『楽毅(第一巻〜第四巻) 宮城谷 昌光著 新潮社 1998年2月/1999年10月 5/1刷 ¥1、700〜1、900+税』 (購入各¥200税込み)

この、宮城谷氏の「楽毅」も、以前に読んだことがあるのだが、先日読んだ「太公望を読み切った余勢を駆って、これも読み切った。
流石に、単行本4冊ともなると結構な重さ/質量だが、それをものともせず(?!)、大阪・難波店で買って持ち帰った。
こうした単行本を選ぶ理由は、冊子が綺麗なこと、文字が大き目で見易いことなどだ。

この本の中身だが、古代シナ/中国に生きた孟嘗君と同時代の楽毅という人物を描いた小説で、優れた能力を持ち活躍はするのだが、能力を存分に活かしきれない生涯だったという。
元々は武人だが、行政能力や参謀としての能力も高く、仕える主君次第で、幾らでも能力を発揮出来るはずだったのだが、そういった出会いが無かったために、歴史には大きな名を残せなかったようだ。

現代に当て嵌めてみると、ちょうど“民主主義国の首相役”をこの人物にやって貰うと、随分、その行政能力や防衛能力を発揮して貰えるのではないか?!と思ったり。
ただ、今の民主主義国・日本では、“君主”は「今生天皇」ではなく、私達一般国民がその役をやっているわけだが、そうなると、またまた楽毅氏は、気の毒にも、その能力を十分に引き出す“君主”には、恵まれないってことになりそうだが。(苦笑)
何故って?(“君主役”としての)私達日本国民は、今の安倍首相の“持てる能力”すらも十分い引き出せず/出さず、むしろ“一強憎し”と脚を引っ張るばかりだもんな。(苦笑)
もっと、私達国民自身が、“君主”(名君|迷君?)になったつもりで、安倍首相の能力を存分に発揮させてやる(/貰う)ような態度では、居れないものだろうか。(...だが、今や、皆が“小者”で“”や“小姑”に成り果ててしまっているからなぁ)



小説 河井継之助  「六月六日」
『小説 河井継之助 童門 冬二著 東洋経済 1994年8月 1刷 ¥1、500税込み』 (購入¥200税込み)

この河井継之助という人物に関しては、沢山の資料や小説があるそうだ。
私は、故司馬遼太郎氏の作品「峠」、「花神」で読んだことがある(はずだ)が、その人物像は、幕末に活躍した武士として以外に、あまりよくは覚えていない。

この本では、自藩(長岡藩)を自主独立の一国として固める考えを持っていたが、もっと大きな世の中の流れの中で、志は実現出来ずに終わってしまう姿が描かれている。
結局、薩摩、長州などの大勢の活動家達(の存在)に対して、河井継之助一人(だけ)の意志・行動だけではとても勝てなかった、つまり多勢に無勢であったような感じがする。

他方、思い切った藩政改革をして行ったそうだが、その目的が、“自藩の武装中立”だけだとしたら、一般農民・商人や藩士達に生活改善にどれだけ寄与・貢献したのかが疑問だが、当時としてはそれも容認されたのかも。
だが、日本国全体として、“対外国勢力への対応力”を考える方が、先だったのではないか?
やはり、人物の器の大小やその実力に関係することなのだろうな。

しかし、昨今の日本の政治家達や官僚達の“器の小ささ”には、辟易させられる。
これは、自由主義、平等化、平準化の特質なのかもしれないが、嘆息するのみだ。



太公望(上、中、下)  「六月二日」
『太公望(上、中、下) 宮城谷 昌光著 文藝春秋 平成十年七月・八月 4/6/1刷 各¥1、762+税』 (購入各¥200税込み)

この本は、以前読んだことがあるのだが、また読みたくなって買って来た。
やはり、内容は殆ど覚えていなくて、どの巻も新鮮味があり、すごく面白かった。
(...忘れるってのもいいことだ♪)

太公望」という名は、“釣りをする老人”のイメージしか無かったのだが、ここでの話は、若者から壮年時代の“”という人物の大志を目指した冒険的な生き様を描いたもの。
シナ・秦のずっと前の世代・古代の商(殷)の時代、やっと文字が出来た頃のことで、記録も殆ど無いのに、こんなに人々の思考や活躍の真に迫った克明な描写が出来るのは、(筆者の)大した想像力・創造力と筆力だ!と思う。

物語の殆どが、想像だろうけど、古い時代の各地の勢力分布や、土地の風習や地理的な問題を、全然矛盾を感じさせずに描き切るのは大変のことではないかな?

こうした古代の物語を読みながら、よく思うのは、軍隊・兵達の糧食とはどんなもので、どのように保存していたのかということ。
秋に収穫する穀物類が、主なものだと思うが、通常の軍隊規模でも、数万から数十万人(の兵士達)だという話だから“遠征”となると、物凄い輸送量・消費量になるのではないか?
それと、排泄物などの処理はどうしていたんだろうか?などなど、幾つかの疑問はあるのだが、そうした点は、あっさり書いてあったり省いてあるのだが、...“まっ、いいか!”(笑)


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