[表紙頁]へ 我楽多苑 別亭]へ
物事集 二〇一八年六月版



『祖国とは国語』  「六月十七日」

『祖国とは国語 藤原 正彦著 新潮文庫 平成18年4月 10刷 ¥400+税』 (購入¥108税込み)

この著者は、「教育」とは“厳しい教え込み”(または、“刷り込み”)であると書いておられるが、私も、その通りだと思う。
戦後、米国式の民主主義・個人主義を押し付けられて、何となく、(子供達の)学習は本人の欲求次第であり、当人の自主性(?)に任せねばならない(?)という風潮が根付いてしまったが、やがては、あの悪評高い“ゆとり教育”にまで落ちて(!)しまったわけだ。
流石に、国際水準から落ちて来たことが数字的に現れると、それが拙買ったことに皆が気が付いたので、今後戻りをしている処らしい。
しかし、もう、子供達を教育する側の親達(私も含めた大人達)は、“与えるのは、これだ!”という確たる素地(倫理、信条や信念、哲学など)が無くなってしまっている。
そういったものを全部、戦後の米国式(刷り込み)教育や環境が、なし崩しに壊して来たからだが。
笑うに笑えない現実として、今の「日本国憲法」が、米国によって与えられたものであるにも関わらず、未だに後生大事に抱え込んで神棚に祭ってあるという、悲喜劇がある。これを、“日本が世界に誇る憲法だ!”と、宣う連中(日本人?)も居るというが、“鰯の頭も信心から”という昔の故事を思い出す。(苦笑)

果ては、日本の義務教育の中に“英語”を入れようとしているのが現状だが、この著者は、そんなものより先ず『国語教育に注力せよ!』と書かれている。
昔の哲学者(デカルト)が、“我思うゆえにあり”と言ったという。戦略思想家(孫子)は、“敵を知り、を知らば、百戦危うからず”とも。
また、“君は君 我は我也 されど仲よき”という人もあった。(故武者小路実篤翁)
いずれも、“先ず、自分(我、己)を良く知りなさいよ!”ということだ。
そして、日本人なら、自分自身を、自分の身の周りを、そして自分の国・日本(日本人・日本国)を、きちんと知っておかねばいけないってことだ。
それが、(無国籍風の)“根無し草”では、たとえ英語がペラペラ喋れても、他国人からは別段、尊敬はされないし、恐らく、対等にも扱われないだろう。
まぁ、旅するバックパッカー/風来坊としてなら、一介の人間としては、親切に扱ってくれるかも知れないが、それ以上のものではなかろう。

大人になってから学習する量は多寡が知れている。詰め込み易い子供の時に、機械的に、多量に教え込んでおくのが、もっとも効果的なのだ。
石原慎太郎氏も言う)“詰め込み教育”は、良くないという見方もあるが、それは“怠惰な人間達”の単なる言い草であって、基礎をしっかり固めておかなければ、自分で出来ることも出来なくなること必定!...結果、“何から何まで他人依存”になってしまう!

この本は、前半は教育論だが、途中から『いじわるにも程がある』という大変ユーモラスな話が続く。(図2<クリック>
読んでいて、何度も噴き出した♪



『子どもの品格』  「六月五日」

『子どもの品格 高橋 義雄著 ヴィレッジブックス 2007年11月 1刷 ¥740+税』 (購入¥108税込み)

この本に書かれている内容はどれも、これまで大切だと思われて来たこと、それらを何とかして守って行かねばばいけないことばかり。
私など(平民も!笑)も、難しいけど、やはり子ども達はこう育てるべきだと思い込んでいるのだが。
でも、今の世の中、そうは甘い(?いや、厳しくない)ようだ。(苦笑)

厳しく、かつ、自立心を持つよう育てるべきだ!”と考える人(達)の人口が段々減少して来ているのが実態だ。
18歳を越えても、まだ大人になり切れない若者が多いことや、幼稚なままなのに成人顔をして、他人の責任だと言い募って社会的・法的な要求をする中年(人)・老(年)人が増えたことなどを考えると、やはり戦後の“子ども教育の拙さ”が祟っているのだろう。

その原因は、厳しさを得意としない母親・女性達が、彼女たち特有の“優しさ”や“保護本能”だけで、子ども達を育てて来たからではないかと思う。
拙いことに、(自身の自由を謳歌することを覚えた)女性達が、(基本を教えられることも無く)母親の役目を担って/担わされて来たこともある。
実は、保育は得意でも、養育・教育は苦手な彼女達は、(なんで私だけが?という)被害者意識が強くなって来ている上に、養育・教育的実務で出来ることといえば、“過保護”か、“他人依存”か、“放置”だけだからだ。
その道の専門家ら(?)は、“それでいいのよ!”とか云って、あんちょこに肯定するだけだし、(戦前にはあった厳しい修練を伴う)実務学習などもせず、させず。

自分の権利ばかりを強調し、責任・義務などはちっとも考えない傾向は、女性達だけでなく、男性達にも広がって来ている。

...それにしても、先般の(新聞紙・雑誌上・動画上を賑わす)大人達の振る舞い−“子ども達?の過保護事件”には、ホント、驚いた!
先般のアメフトの“下手糞な反則プレー”の大騒ぎで、“マスコミ”を始め“モンスターペアレント&指導者連中”の“劣化・堕落”も此処まで来たか?!と思った程。
アメフトの選手・大学生ならもう成人のはずだが、当人達の年齢、能力や行為はそっちのけで、“(子ども達?)指導者や大学の責任”を云々する話で騒いでいる?(愚!)

...で、誰がどんな加害をし、誰がどんな被害を受けたのか?...外から眺めていて、一向に分からず。
...命の関わるような大怪我をした/させたってか?...ち〜がう〜だろ〜!
単に、(年端も行かない?)若者が、“悪戯プレー”をしただけなんだろ?それを動画にしたら、[いいね]が数十〜数百倍に膨らんだだけなんだろ?
勘ぐれば、関学側がマスコミ連中と組んで、このチャンスに、(強くなり過ぎた)日大側を弱体化させようと企んだ(フィールド外の謀略)プレーなのかもしれんな。
現に、フィールド内の“反則プレー”(とか?)をしたり、されたりした選手達は、何事も無かったかのように、知らん振りさせられてるもんな。
一方、関学側は、いちゃもんを付けて日大側の理事会編成にまで干渉出来たし、マスコミは、“(販促っていう)犯則プレー(?)”で騒ぎに騒いで記事・番組が売れて、お金が儲かった!?...今の、マスコミ・マスゴミなんて、売り上げ部数や視聴率アップなどの為に、質など問わず、“どんだけ大衆受けするか?”ってことだけだし。

こんな“騒動”は、何かを(メタメタに)壊すことは出来ても、何かをちゃんと造り上げることなどは、とても出来ない社会遺産なものだってことだ。...『角を矯(た)めて牛を殺す』こんな“諺/格言/生活の知恵”は、誰も教えて来なかったのだろうし、もう、今では誰も知らないのでは?



『「暴走老人」の遺言』  「六月一日」

『石原慎太郎「暴走老人」の遺言 西条 泰著 KKベストセラーズ 2013年5月 1刷 ¥952+税』 (購入¥200税込み)

昔、石原慎太郎という若者が、『太陽の季節』でデビューして来た時には、“何だ?このはみ出し者は?!”と思った記憶がある。
しかし、ずっと時代が下って来て、石原氏の様々な活躍ぶりを見聞きするにつけ、むしろ、今は賛同もし、応援もしたくなっている。
昨今の、“歯にも衣を着せぬ物言い”も、むしろ私の感覚では、逆に相当生ぬるいのでは?と思うことも多い。
だが、それは、石原氏の世知の然らしめる由縁だろうし、むしろこちらの方が“(世間知らずで)青臭さ過ぎる”のかもしれない。

氏の一貫した哲学は、私心無く出来るだけ多くの日本人・人々の為に/利益になるようにするには、何をどうするのがベターか?を考えながら行動することだ!と見ている。
そして、物事には“ベスト”などは決して存在しないし、そんなことは実現も出来はしないことも、分かった上で、実際に、現実的に行動されている。
そうした哲学を理解出来ないか、理解したくない連中は、それを「暴走だ!」ということだろう。

私と石原氏との唯一の接点といえば、「尖閣諸島を東京都で買おう!寄付を募る!」という話で、「寄付」をしたことだが。
(はて、記録を探したが、残っていなかった。確か、5万円を寄付したはずなんだが...)
まぁ、これは、“失敗した事業”ということで、今は既に“忘却の彼方”だが。
しかし、この先、石原氏達のように、表立って「(日本国の)尖閣諸島」に灯台を建てようなどという人物達が出て来ることも無くなりそうで、私達日本人として、悔しくて寂しい時代になるだろう。

まぁ、多寡が、アメフトの“違反プレー”だけで、しかも、その(成人?の)愚か者の指導をしていたというだけで、監督やコーチの方が断罪されてしまう時代だもんな。(筋違い!)
相手選手が、大怪我で復帰出来ないほどの重症だったわけでもなければ、アメフトが神聖な国技で、(寸毫も許されないほどの)禁忌プレーだったわけでもないのに、しかもマスコミ記者などはバカ親でもないのに、気違いみたいに、責任!責任!って攻め立てるって!...ホント、阿呆で低劣な!世の中になったもんだ。
軟弱さ、下劣さ、低脳さが売りモノになり/それでお金儲けが出来る“日本社会”って、果たして将来も存続出来るのかねぇ?
(この「暴走老人」も、もう口をアングリか?それとも寂しく口を閉ざすか?)


[表紙頁]へ  関連記事の目次へ