モグラの繰言 2011.10    我楽多苑 別亭へ (真面目な愚痴!)

年収300万円 [1030]
『年収300万円時代を生き抜く経済学 森永 卓郎著 光文社 2003年7月第11刷 \1,400+税』 (購入\105税込み)
ベストセラーだったそうなので、試しに買って、読ませて頂いた。
当初は読みながら反発を感じていたのですが、最後まで読んでみて、同感しました。
私達の多くが、300万円以下での生活を強いられている現実は、この際措くとしても、世の中の水準や方向性の“氏の見方”は間違っていないですね。
“誰もが、皆同じように、平等で!”という今までの夢想は捨てなさい!だけど、常にやる気向上心は捨てないで!という考え方は、これからの世で生きるための「適切な処世訓」だろうと思います。
結局、“何故、俺だけが...”とか、“そんなの不公平だ!”と云う前に、「自分が、自らしなければいけないこと」や「自分が出来ること」を真面目に見直して、まずそれから取り組むべきだと言う事でしょう。
他人に望んでも、それはもう無理な時代になって来たってことです!(ギリシャも同じ!世界も同じ!)

日本人の本能 [1028]
『日本人の本能 渡部 昇一著 PHP研究所 1996年7月第4刷 各\1,500税込み』 (購入\105税込み)
この本では、沢山の戦後史上のウソを指摘・告発されています。
“東京裁判のウソ”、“南京大虐殺のウソ”、“コリア人戦場慰安婦のウソ”、“コリア人強制連行のウソ”、“欧米人の日本人種非差別ウソ”、“不戦決議のウソ”などなど。
それらを、日本人全体のトラウマにしてしまった“愚かさ”も指摘されているように思いました。
救い”は、最近になってやっと、私達庶民・市民もそうしたウソに気が付き始めたことでしょうね。
(ところが、逆に、コリア自身が恥ずかしげも無く作り話/ウソの慰安婦問題”を、今更のように蒸し返そうとしているらしいですが、ホント良くやりますねぇ)

天風の彩王 [1026]
『天風の彩王 藤原不比等(上、下) 黒岩 重吾著 講談社文庫 2000年10月第1刷 各\733+税』 (購入上下\210税込み)
この本も、大変面白く読ませて貰いましたが、色々な事柄についてあれこれ考えさせられました。
日本の“実際の権力者”は、“下の地位にあって、決して最高権威者(=天皇)ではなかった”ということ。
その最高権威者の始祖は、“自然≒神意を占う巫女”であったこと。
そして、為政者は、常に自然災害に怯えながら遷都を繰り返し、その度に、庶民は使役に駆り出されていたことなど。
今の日本人が、受動的なのは、そうした古代からの“逃げ廻る性癖”が、為政者から庶民に至るまで、身に染み付いているからではないか?と思ったり。
しかし、日本列島の中で一番“自然災害”の少ないのは、やはり「近畿」ですが、為政者達がここに落ち着いてしまったのが、“覇気”を無くした潜在的要因ではなかったか、などと考えたりしました。

弓削道鏡 [1024]
『弓削道鏡(上、下) 黒岩 重吾著 文藝文庫 1995年6月第1刷 各\540税込み』 (購入上下\210税込み)
精細な記録が少なくて、飛び飛びの史実だけを元に、こんなリアリティのある物語を組み上げるのは、喩え小説であっても大変な仕事でしょうね。
私は以前、弓削の道鏡という人物を、露西亜の怪僧ラスプーチンか何かのように思っていたのですが、この本の『あとがき』にも書かれているように、実は至極まっとうな人物だったことを初めて知りました。(無教養丸出しでスミマセン!)
結局、彼を妬む人間達から激しく攻撃されたために、後々まで、それらの“非難の断片”が残って来たのだ思いますが、そうした話(の端くれ)を信じていたのは、“甚だオソマツ!”ってことでしょうね。
(知識を増やすのに、もっと色々な古代小説を読んでみたいと思っていますが、次は、藤原不比等伝です)

ダメにした教育 [1022]
『日本人をダメにした教育 三浦 朱門著 海竜社 1999年2月第2刷 \1,500+税』 (購入\105税込み)
この本、表題目次各見出しは、大変興味深かったのですが、中に書かれてある内容は、どうもストンと腑に落ちません。
確かに、見出しに沿った色々な事例が多く紹介はされていますが、“..で、だからどうなの?”と、つい独り言を言ってしまいそうになります。
この著者は、“事例だけを挙げておくから、後は読者が自由に考えなさい!”と突き放して居られるのかもしれません。
でも、それでは、私などのような“鈍臭い読者”には受けないでしょう。
だって、読んでいて、参考にも、刺激にもならず、全然面白くなかったから。(思ったのは、本質を突いた指摘やそれの改善策、つまり私達は「“何処を、どうすべきだ!”の具体的な提案」が無いせいでしょうね。単なる講評だけではねぇ...)

消費文化の幻想−続き [1020]
『消費文化の幻想 井尻 千男著』 [下述]
またまた、“なるほど、そうだ!”と膝を打った項がありました。それは、『「真善美」への確信』での紹介記事。
電力の鬼と言われた松永安左ヱ門氏の言として紹介されている箇所、
 『・・・ 人間生活の実存といえば、刹那、刹那、の行動という外はない。・・・ 自らを背負って生まれて来ているのであるから、自分自身が社会の王様である、天上天下唯我独尊の境地、いいかえれば何事も自分が責任を持つとともに、なり、なり、なりという確信を持ち得る決意が必要である』 とあります。
こんな決意は、私のような凡夫には、安々とは持てない(/自惚れになる)ことなのですが、しかし、“自分が責任を持つ”と“真善美は必ず存在する”については、やはり“心積もり”はしておきたいものです。
現状では、まだまだ至らない、もっと磨かねばならないとしても、ですが。

消費文化の幻想−続き [1018]
『消費文化の幻想 井尻 千男著 [下述]
この本での色々な“指摘”は鋭くて、その度に考えさせられます。
 『美神というものが、どこかで悪魔と結託しているように、古典主義的精神にも浪漫主義的精神にも、いくぶんかの毒は含まれているだろう。そもそも衛生無害、毒にも薬にもならない精神などというものはないはずである。危険を伴わないような理想もまたないはずである。
にもかかわらず、戦後の日本人は、なかんづく七〇年代以降のわれわれは、なんであれ毒を予感させるものからは逃走するという悪癖を身に付けてしまったようだ。その結果はといえば、単純きわまりない唯物的還元主義に陥ってしまったのである』 のだそうです。
確かにそうですね!教育現場での“順位を付けない走りっこ”もそのひとつでしょう。
“只、走ればそれでいい”(?)らしいし、“勝つために、速く!”ではなく、“皆平等に、遅く走るべき”(?)で、“余分な覇気などは毒だ”と思い込んでしまっているようです。
(と、そこまで考えて、果たして、私自身はどう振舞っているのだろうか?と、自問自答中)

消費文化の幻想 [1016]
『消費文化の幻想 井尻 千男著 PHP研究所 昭和63年3月第1刷 \1,300』 (購入\105税込み)
この本、著者の言いたいことは良く分かるし、同意したり納得したり痛快に感じる箇所も多々あるのですが、書かれている文章に、(不快ではないけど)何と無く違和感があります。喩えると、“鼻に掛かったフランス語”で、厳しく皮肉られているような感じ。
発行は昭和の末ですが、昨今の日本の状況を見ると、“指摘”はちっとも古くなっていませんね。
 『勝手気儘な「自由」だけを語って、調和感覚にみちた「秩序」に思いをいたさないのは幼児性である。...「平等」ばかりを強調して、内なる「差別」の欲望を自覚できないのも幼児性である。それらが幼児の所業でないとしたら、大人の自己欺瞞である。...それは消費論に限ったことではなく、時代精神そのものがそうなのである』 と。
私なりに読み解くと、『“真剣にこつこつと、皆で積み上げて来た秩序ある伝統的精神”を鼻で笑って、“文化って、軽い乗りで、面白いだけでも、いいのだ!”と思い込む時代になってしまった』ということでしょうか。(或いは、これが「罪を裁く」のを“市民感覚の裁判員裁判”で代用しようとする浅薄な時代の別の面なのかも)
この本を、もし、若者達に読ませようとしたら、どんな反応を示すかな?“ちっとも、わかんなーい!”で、放り出されるか?

北風に起つ [1014]
『北風に起つ 黒岩 重吾著 中公文庫 1998年2月第3版 各\933+税』 (購入\105税込み)
継体大王については、「古事記」、「日本書紀」などにもあまり記載されていなくて、謎の人物だとされているそうですね。(私などは、古代史は全部“”ですが。苦笑)
それを、作者は“史実”と“推測”と“創造”で肉漬けして、活き々々とした人間像群を描き出されています。
歴史の一齣を、冒険小説として読めて、大変面白く、かつ参考になりました。
それにしても、古代では(想像以上に)権力者たちの筋目(家柄?)や縁戚関係が重要視されていたことや、女性が“贈り物扱い”されていたことに、苦笑させられました。今なら、その代わりは“お金”でしょうけど。
しかし、継体大王が、豪族達の支援・推戴で「大王」に選ばれたらしいのですが、それは如何にも日本国(倭国)らしいと思いました。誰かが“自分が大王になる!”と力んでも、血筋や人望が無くて周りの氏族達が無視すれば、なれなかったようですし、また当時は皆小粒だったようですから。

日本は「2番」で [1012]
『日本は「2番」でいい! 日高 義樹著 飛鳥新社 昭和63年12月第1刷 各\1,300』 (購入\105税込み)
もう随分前になりますが、蓮舫女史がノタマワッタ「2位じゃぁ、だめなんですか?」を思い出しますねぇ。
あの時は、皆が反発して、いきり立っていましたが、“日本人の特性”から言えば、絶対に先頭を切っては走れないってことが、この本につらつらと書いてあります。
それは、リスクを取らない、変化を好まない、世界の実態を知らない/(知りたくも無い)、からだそうです。
内容は真面目至極なのに、最初、この本の目次だけで笑わせられてしまいました。それは、「行き過ぎた自由と平等」の項で、“猫が雄か雌かを「投票で決めよう」”...
考えてみると、最近の「裁判員裁判」が、将にそれですね!(赤信号、皆んなで渡れば、青信号?)

ワカタケル大王 [1010]
『ワカタケル大王[上、下] 黒岩 重吾著 文藝文庫 2003年12月第1刷 各\590+税』 (購入\210/2冊税込み)
やはり、文庫本は便利!ポケットに入れて日本橋の行き帰りに、読書三昧でした。(通常は、線路周辺の風景を眺めて愉しむのですが、今回は本に没入)
この本によると、古代の“権力・勢力争い”は、相当熾烈(しれつ)だったようですね。(邪魔なら、兄弟殺しも有り得る)
しかし、結局は、強いものが生き延び、弱いものが早々と消されて行くのは、世の習いですか。
そして、国内勢力同士に限らず、周辺諸国との諍いや権力争いでも、同じルールですかね。
で、今の私達それぞれの日本人は強い?弱い?どちらなのでしょう?
この本に出て来る、豪族“葛城円大使主(かつらぎの つぶらの おおおみ)” のような運命を辿るのかな?
(経済力もあり、勢力もあったのに、軍事面で逡巡・油断し過ぎたために、ワカタケル王子に殺されてしまった。そんなに悪い人物でもなかったのに!時の運には勝てなかった)

落日の王子 [1008]
『落日の王子 蘇我入鹿 黒岩 重吾著 文藝春秋 1990年7月第19刷 \1,600税込み』 (購入\105税込み)
夜が更けるのも忘れて、読み耽(ふけ)りました。(この本、大変なベストセラーだったらしいが)
他の歴史書や教科書ではさらっと書かれていた、山背大兄皇子一族殺害事件の背景や全体が、これで肉付けされた“3D画像”のように浮き上がって見えて、当時の状況が良く分かりました。
作者は、“これは小説だ”と断って居られますが、学者並みに色々な資料を研究され解読されているようなので、“実際”とそれほど掛け離れてはいないだろうと思います。
ここでも、皇極女帝は、入鹿に利用される“飾り物”として描かれていますが、もし女帝が本当に実権を持っていたら、きっと(悪名高い?)則天武后のような存在になったのではないかと思ったり。
残念なのは、聖徳太子の先行的な思想(≒人民平等)による政治が、長続きしなかったらしいこと。
やはり、まだ時代の方が追い付いて来なかったのでしょうね。
(しかし、時代が下り、民衆化に勢いが付き過ぎた今の“衆愚政治”は、むしろ私達庶民自身の首を絞めているようですが)

海人と天皇[上] [1006]
『海人と天皇[上] 梅原 猛著 [下述]
この本は、文字数が多くて読み疲れますが、大変興味深い、いや面白いです!
この日本国が、“どのように育って来たか”が良く分かるから!(ただし、何故そうなったのかについては、不明なんですが、想像するに“穀物食が遺伝子に与える影響”が原因か?)
最古の公式の「律令制度」は、「唐」のそれを真似たらしいのですが、(当然ながら、)当時の日本の事情に合わせて、日本独自のものに造り替えられているそうです。
その「律令制度」がそのように造られ、上手く機能した理由は、女帝が上に据えられた時代だったからだそうで、“なるほど!”と思わず、膝を打ちました。
(「唐」では、皇帝自身の独裁政治で、官僚はその手足だったようですが)
今の日本の“官僚主導の政治”が、その「律令政治」にそっくりなのは、“日本人の本性(何でも貴方任せ)”に依る所が大きい事に思い当たって、つい苦笑。

万葉集 [1004]
『もう一つの万葉集 李 寧熙著 文藝春秋 1989年9月第3刷 \1,200税込み』 (購入\105税込み)
「日本古代史」繋がりで、こんな本を買って来ましたが、読んでみて、納得!
万葉集の時代は、やはり韓国語や日本語や漢語がごちゃ混ぜで、特に古い物ほど韓国語が主だったようですね。
しかし、多くの歌は、完全な解読が出来ていないらしいのに、現代までずっと放って置かれていた/いる?らしいことにも、驚きました。(研究・探索の範囲が、狭過ぎたか?)
尤も、“専門家”にすれば、歌の意味が分かる?振りをして、適当に“勝手解釈”しておくのも、一つの知恵/作戦なのかもしれませんが。
この本によると、“意味不明の歌”は「古代韓国語」で読むと、すっきり意味が通るものになるようで、確かにその解釈の方がよさそうです。
(それにしても、今までの私達にウソを教え続けて来た学者さん達は、一体何を研究して居たのでしょう?これは、若い人たちにも知って欲しいですね。でも、今の教育事情ではねぇ...)

海人と天皇[上] [1002]
『海人と天皇[上] 梅原 猛著 朝日新聞社 1991年12月第1刷 \2,100税込み』 (購入\105税込み)
近頃は、「日本の古代史」にも興味があり、面白そうなので買って来ました。(上下巻合せて\210)
(でも、細かい活字で350頁〜400頁もあるし、至る所知らない事だらけなので、読み通すのには、相当時間が掛かりそう。)
ところで、この本でも「憲法十七条」の第一条『和なるを以って貴しとし、さかふること無きを宗とせよ』が取り上げられていて、やはり、「和」は“お互いに仲良くしよう”だと解釈されています。
こうした説は、日本では一般常識化していますが、最近、私はこの「和」の解釈に疑問を感じています。
もしかしたら、実は“和”を当てられている“わ”は、「」等ではないか?と。
(今の日本国憲法で言う、「基本的人権」の対象になる“人”の意味ではないか?と)
というのは、前年に制定された「冠位十二条」(大徳、小徳、大仁、小仁、大禮、小禮、大信、小信、大義、小義、大智、小智)は、(高句麗の制度を真似たらしいのに、)この「徳」だけが独自に付け加えられているそうです。では、何故、最上位に「」を置いたか?
この「」は、明らかに“個人≒吾”の備えるべき特性であり、“仲良くすること”とは別種でしょう。
もし、“仲良し”が最重要だと考えるなら、無理にでも「禮」とか「信」を最上位に持って来るはずでしょうに!?(尤も、それらだと、白々し過ぎるかな?)
それに、憲法第二条では「三寶=仏、法、僧」を敬え!、第三条では「詔=天皇」を謹め!とあって、具体的な教示・人物を指しているのに、第一条だけが(上っ面だけの)“仲良し”を挙げるのは、どう考えても奇妙です。
“まぁ、日本人特有の曖昧さのせいだろ”とするのは、聖徳太子に申し訳が無い気がしますね。


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