導育甘言集 2012.03    我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴)]へ      表紙頁]へ

逆・日本史[4] [0331]
逆・日本史 古墳→弥生→縄文 樋口 清之著 祥伝社 平成元年7月 18刷 \1,000税込み』 (購入\105税込み)
これは全4巻ありますが、他は既に読み終えて、これが最後。
通して読んで、このシリーズは“歴史の教科書”として、大層優れていると思いました。
通常の教科書のように、事実の無味乾燥な羅列ではなくて、ちゃんと目鼻が付き色付けもされて、読んでいて実際の事情や流れがよく分かって面白い。
ただ、同じ案件(事件や人物像)でも、既に異説を知っている場合には、多少引っ掛かりはありますが、各著者によって見方が異なるのが、実感出来ます。(色々沢山読んで来た役得!)
例えば、黒岩版の推古女帝では、政治は滞り無かったが、女帝の我儘は、誰も抑えられなかったように描かれていたように思うのですが、この樋口推古女帝では、自分を抑え、敢えて厩戸皇子聖徳太子)を摂政に立てた事など(政治的)ファインプレーだと評して居られます。
古代では、“何を以って正しい政治と言えるか?”は、難しい処ですが、やはり立場によって変わるでしょうね。
庶民の側に立つか、為政者の立場に立つか、個人の生活重視か、日本国全体の有様や発展を考えるかによっても違いますからね。
(まぁ、私としては、歴史は複眼で見ていたいと思っています。それでどうやれば、自分達や子孫達のご利益(りやく)をベースに、周りの人達や皆が、有利になる/出来るかと)

日本正史 [0328]
『古代天皇家と日本正史 中丸 薫著 徳間書店 2004年9月 1刷 \1,600+税』 (購入\105税込み)
この著者の説では、古代日本は、高句麗を経由した古代スキタイの文化が大きく影響しているそうです。
それが可能であった理由は、日本海の中に島があったからで、大陸との行き来は、それ程困難ではなかったとか。(左写真クリック)
また、“壬申の乱”は新羅、高句麗の介入があり、大海人皇子は(淵/泉?)蓋蘇文と同一人物で、彼は高句麗と大和とを行き来していたらしいとのこと。(類似の話あり
(実は、『日本書紀』では、大海人皇子の前半生について、殆ど書かれていないのに、蓋蘇文の活動については、結構詳しく書かれているらしい...まだ、私自身は、確認出来ていません
この本の内容は、大陸にまで視野を広げた、大変スケールの大きな“古代日本”を感じさせてくれて魅力的なのですが、頻繁な大陸(北側)との交通、つまり人々の“素早い移動”を考えるのは、ちょっと無理があるような気がしました。
日本海中の島についても、古代の難波の地は海が近かったはずだから、日本海の真中に大きな島が出ていたほど、海水位が低かったようにも思えないけどなぁ。確かに、「大和堆」ってのは、ありますがねぇ。(参考:海底地形図


国家の品格 [0325]
『国家の品格 藤原 雅彦著 新潮新書 2006年3月 21刷 \680+税』 (購入\105税込み)
この本は、愉快!痛快!味がある♪...と、刷り版数を見たら、やはりベスト・セラーだったようですね。
この著者の語り口で、(今は昔の)“(す)いも甘いも噛み分ける”という言葉を思い出しました。それは、人生の苦労とか喜びとかを、深く広く経験した中から出て来る判断でしょう。
書中には、私が強く同感する項が、幾つもありました。
 −会社は株主のもの?(んなわきゃない!創業者や従業員、協業者のものです!)
                (でも、時と場合によるかな?今時の関電と大阪市)
 −小学生に株式投資?(子供に賭博のやり方なんか教えてどーすんの!)
 −英語よりも中身を!(そう、言葉は単なる道具!でも、思考の道具でもある)
 −世の中には「1」も「0」も存在せず(絶対安全[1]?絶対廃止[0]!)
 −「自由と平等」≒「身勝手」(今の世の中、そればかり?!)
 +「論理性」よりも、「情緒」と「形」が大事!(もう、多くの日本人が忘れ始めてます...私もか?
 +武士道精神の復活を!(以前の日本に在った高い精神性を取り戻すべき!)
私自身も、常々物事を論理的に考えようとする癖が抜け切れませんが、やはり“論理思考”だけでは(物質的な)限界があります。
例えば、ある花を見て“美しい!心地良い!”と感じる時、心に何があるか?を考えてみたら、好きな色だったり、形だったり、組み合わせだったり、過去の記憶だったり、他人の言だったり、期待だったりします。
“心の中のこれら”を全部絡め取るには、一本だけの竿でなくて、薄くて広くて丈夫な投網のようなものが必要でしょうね。
(この本は、是非、孫達や若い人達にも読ませたいが、本は嫌いらしいから、“読め!”といっても読まんだろうな...泣)

不快 [0323]
『西域伝[上、下] 伴野 朗著 集英社 1987年12月 1刷 \980』 (購入上下\210税込み)
古代史の一つとして興味が湧いたので、買ってみたのですが、完全エラー!
著者は、話を散らして面白く(?)したいと考えたのでしょうけど、“腐敗臭のする鬼道 ”や“人肉を喰らう話 ”が出て来て、その文字数も多く、読んでいて吐き気を催しそうになりました。
以前にも、こんな話を読み始めて、(心身両面で)気分が悪くなって直ぐに止めた記憶があるのですが、同じ著者だったかどうか?
趣味的にも、学術的にも無意味だし、無理してこんなものを読む必要は無いので、『自分への警告』として、此処に記載しておきます。
(二度と、手を出すな! >> 自分)


日本が嫌い [0322]
『日本が嫌いな日本人へ 呉 善花著 PHP研究所 1998年11月 6刷 \1,333+税』 (購入\105税込み)
ちょっと前までは、(自称、他称)インテリ連中が“日本や日本人は嫌い!”ってなことを云っていた時期もあったようですが、近頃はどうなのでしょう?
日本人として生を受け生活しているなら、日本に対して否応は無いと思うのですが、そう思うのは余程“心身のバランス”が崩れているのか、既に“心身が別々の物”になっていたのではないかと思いますね。
しかし、この著者は、“日本は、ちゃんと見直したら、良い所だらけですよ!”、そして“あまり、西洋カブレにならずに、もっと日本本来(農耕民族)の良さを、自分(達)で活かしてみたら?で、もっと、元気になぁれ!”と仰りたいようです。
その中で、日本人の“「集団主義」はかけがえのない財産”だから、大事にすべし!と仰っています。私は、大筋では賛成だけど、ちょっと意見が違う。
もうそろそろ、「個々人の能力Up」を意識した「集団主義」を考えるべきだと思っています。
今のように、皆の“気力”が無くなって来た時の「集団主義 」は、単なる“(互いの)もたれ合い ”だけになってしまうからです。
老人の問題だって、“介護、介護!”って、“余計なお節介状態”になっているのに、未だに“お互い助け合わねば!”と思っているらしい。
泳げない人間が、溺れている人を助けようと飛び込むのと同じで、それ自体がナンセンスなのに!
「助けること」は重要事項であっても、「自分にその能力があるのか?無ければ共倒れだが!」と考える方が最優先だと思いますがねぇ。

世に棲む日々「一、ニ、三」 [0320]
『世に棲む日々「一、ニ、三」 司馬 遼太郎著 文藝春秋 昭和61年8月 41刷、35刷、34刷 各巻\1,200』
明治維新の逸材達(敬称略)吉田松陰高杉晋作の“思想”と“行動”を描いた大作...でした。(三巻を読み終えて、疲れました!)
伊藤俊輔(後の博文)や山形狂介有朋)の名も出て来ますが、何といっても高杉晋作の行動の凄まじさには圧倒されました。
世の中を、一旦壊してから新しく造り直そうとするには、生死を賭けるほどの物凄い“個人パワー”も必要だったんですねぇ。
だけど、そのお蔭で、今の平和で安定した(?)日本が出来上がって来たわけだから、結果論としてですが、そうした人達の働きを、有り難いと思わなければいけないでしょうね。
(別の考え方として、他人のご指導に唯々諾々(いいだくだく)と従う私達日本人の特性からすると、欧米の植民地になっていたとしても、大して苦にはならなかったかも...事実、共産党などは、共産主義国への“日本国の売り渡し”を考えていたほどですし、マッカーサーにご指導を受けた「(間違っている現)日本国憲法」を、未だに後生大事に奉っていますからね。皮肉)
でも、これからは、国民皆が、情報を共有しながら、面倒がらずに建設的な考え方で、日本国を盛り立てて行くべきだと思いますね。
そして、例の“面倒だし、怖いから、それもこれも、何でも反対!”ってのは、いい加減に止めましょうよ!逃げずに、改善に努めるべきです!自分自身で行動が出来ないのなら、早く、“秀でた若い人達”を多く育てて、その人達に託しませんか!

相性悪し [0317]
最近見た本で、読み切らなかったもの...「幕末の武蔵」、「子宮の記憶はよみがえる」、「小学校入学までに教えること教えなくてよいこと」
残念ながら、(私との相性が悪くて、)どの本も百五円の値打は無かった感じ。
内容は、どれも丁寧に沢山の実像や虚像が羅列されているので、読む人によって、それなりの価値・値打のある記述だとは思うのですが、(私は)“で、それで、どうなの?”と言いたくなってしまい、“始め”や“途中”で放り出しました。(あっさり捨てられるのも、安価本のメリットのひとつ♪)
恐らく、説得力が不足なのではないかと。(例えば、同じ嘘でも、騙されても面白いものだとか、本当らしく感じるように巧みな説明がなされているとかであれば、また違って来るでしょうけど)
特に、胡散臭(うさんくさ)く感じたのは、“教えなくていいこと”...
大体、大人は、“すべきこと”が分かるようになれば、“してはいけないこと”は、自然に、素直に分かると思うんですが。勿論、子供達だって同じでしょう。
逆に、“してはいけない ”と云わねばならないような人(達)には、言っても、ムダのような気がしますね。元から理解出来ていないんだから。
(でも、現実には、「してはいけない!」と云う方が、簡単だし楽なんですねぇ...が、ホントは無責任なのかも!)

「教育の崩壊」という嘘 [0313]
『「教育の崩壊」という嘘  村上 龍著 NHK出版 2001年2月 1刷 \1,300+税』 (購入\105税込み)
“嘘”と書いてあるのに少し反発を覚えながらも、この著者のことだから、本当はそう感じて居られても、何か別の意味があるのだろうと、この本を買って、読んでみました。
矢張り、この対談集を拝見すると、教育は崩壊している!だがそれは、システム全体ではなくて、中身、特にコントロール・システムがちゃんと機能しなくなって来て、それらがギリ、ギリと軋り始めているのだ!と仰りたいようです。
つまり、本当に崩壊しているのなら、既に“義務教育”や“学校教育”などは、姿形を変えているはずだ!ということですね。(それなのに、まだ同じ形のままで推移しているってのは、どういう事だ?と)
これらの対談の中で、幾人かの方がほのめかされていますが、現システムの中(の人間)では、システム自身を改革することは(絶対に?!)出来ない、例えば、外圧などが無ければ、“自浄作用”や“自己改革”なんて、出来るわけがない、と。
だから、実際にシステムの外部に出て、外部で必死に努力されながらも、半分諦め気分で仰っているのが、よく分かります。
では、具体的な対案として、自分(達)で“自発的な自己改革”が難しいなら、外圧を上手く利用するのが“好手”では?!
外圧=橋下改革下での、「大阪市交通局」の近頃の“自主的内部不正の洗い出し”なんてのも、その良い例だと思いますね。
(でも、根本的な手直しは、矢張り、一旦完全に崩して、造り替えないとダメかも)

そんなバカな!(再) [0310]
『そんなバカな! 竹内 久美子著 文藝春秋 1991年3月 1刷 \1,300税込み』 (娘の蔵書から \0)
この本は、以前にも読んで、大変奇妙で面白かったので、まだ本棚に残してあるのですが、また読んでみて、また幾つもの箇所で啓発されました。
ここで出て来るのは、(仮想的な)『利己的遺伝子(セルフィッシュ・ジーン)』で、面白いのは、人間の身体や精神は、この『利己的遺伝子の乗り物(ヴィークル)』だと考えるのです。
それで、人間(や生き物達)のヘンな行動が、上手く説明出来るんですね。
何故、“結婚”したり、“争い”をしたり、(自分用の)“神”を考え出したりするのか?...を、“遺伝子の利己的な自己保存願望?要求”として考えると、大変分かり易いようです。
やはり、『利己的遺伝子』を持った私達生物の基本姿勢は、“現在の自己保存”だけでなく、自分を抑えてでも“遺伝子の効率的な継承・存続”が大切なんだろうなと納得!...ということは、孫の顔を見たら、“遺伝子引継ぎ”はもう済んでいるので、直ぐ身罷(みまか)るのが老人の本来の姿なのかも。
どうせ、“乗り物”は一代限りだから、ポンコツをぐずぐず延命させるのは、乗り手(利己的遺伝子)にとって、あまり有意義とは思えないが...あるいは、後が心配なので、長生きさせざるを得ないのかな?(苦笑)

抱かれる子 [0307]
『抱かれる子どもは よい子に育つ 石田 勝正著 PHP研究所 1997年6月25刷 \1,170+税』 (購入\105税込み)
この著者は、“子供(達)の「(自己)存在感」を育むためは、母親の抱っこは必要だし、大切ですよ!”と言っておられますね。
この「(自己)存在感」というのは、私の考えている“自分教”にも繋がるなぁ♪と思ったり。
この方が仰(おっしゃ)りたい事の概略は、14ページに反意的に纏められています(左写真クリック)が、私も、先人達の考え方・やり方を拝見したり、自分の孫達で経験したりして来て、今では“同じような感想”を持っています。
ただ、こうした“昨今の風潮が、自然の流れに反しているか?”というと、もう、今はそんな感覚は、残り少ないのでは?
今みたいな平和で安定した社会になると、(自分の種族を存続させるために、)賢くて強くて優しい子供(達)を育て、しっかり生き延びられる子孫を残そうなどという衝動気概は、既に薄れてしまっていて、“もう、子育てなど、生活の一部だから、面倒だし、テキトーでいい♪”と思う方が自然で、常識になっているのだろうと思いますね。
現状を眺めると、一部の人(達)の云う、“自分の今の生(活)をちゃんと営むことの方に意義や価値があり、子供(達)のためだけに生きてるんじゃあない!だから、子供育ては、きちんとやれば(?)片手間でもいい!自分が忙しければ、子供は他人が育ててもいい!”という考え方に、かなりの人達が帰依してしまっているようです。(一種の“母親忌避”だけど、女性の耳には心地良い)
しかし、昔から「“母親の乳房や父親の背中”が、子供達を愛情豊かで有能に育て上げた例は、山ほどある」って聞いてるのに、皆、“ふーん”だけで済ましているところが可笑しいですね。(忙しいから、そんなことには構ってられないって逃げか)
...ところで、「育てる技術」に関してなら、そうした逃げ手よりも、もっと良いやり方(例えば、この本に書かれているような方法など)を知って、利用・応用するのが、“賢いやり方”だと思うのですがねぇ。

[私の愚痴]
思うに、母親達は世の中が変わらないと、なかなか自分を変えられない。けど、世の中も変わらなければ、国の教育制度も変わらない。
では、何処から変えるか? ... それを、私欲が絡まない政治主導でやろうとしても、大きな声でそれを阻む勢力や意思がある。
“やったら必ず失敗するから、従来のままが良い”と云う。変化は、“敵だ”と宣言する。変化に、能動的に対応しようとする努力も意志も無し。
例えば、「東日本のがれき」など、“子供への影響が心配だから、受け入れない”と反対する。
専門家が“大丈夫”と言っても、“それは安心出来ない”...政府が“基準を決めた”と言っても、“政府の言う事は、もう信用出来ない”...ところが、自分(達)の不安心感だけは、信用出来るらしい。“がれき処理”なんかどうだっていい、自分(達)が平穏・無事でありさえすればいいって。
(嘲笑)

蒼穹の昴 [0305]
『蒼穹の昴 [上,下] 浅田 次郎著 講談社 1998年7月18刷 各\1,800+税』 (購入\210税込み)
この本も凄い!支那・清王朝の終末期を描いた大作ですが、(筆力に)圧倒されました。
そして、色々考えさせられたり、更に個々に興味が湧いて来たり。
倭国(日本)の古代でもそうですが、女性の最高権威・権力者(この本では、西太后)は、如何に優れていても、やはり(愛?)情に負けて政治を曲げる事が多いようですね。
諫言(れんげん)には耳を貸さず、情に溺れて処断することも多いらしい。日本の推古、持統女帝なども、確かそんな癖があったように記憶していますが。
尤も、それが他国や後世の人間から見て歯痒かったとしても、その時代に不適合だったのかどうかは、何とも言えませぬが。西太后も、庶民からは敬愛されていたそうですし)
それにしても、支那も大変な苦労をして、近代化に歩み始めたようですね。
列強国に分割され植民地化されなかったのは、日本の表・裏の支援が大きかったそうですが、李鴻章公という(政治・軍事・外交で)優れた人物が居たことが幸いしたようだし、また科挙制度で選ばれた秀才達が、結局は「中華王朝=中国」を救えなかったことなども知りました。
しかし、支那という大きな国を、今は(共産党の)独裁的中央政権だけで運営しているようだけど、その内、民族問題、党・武(?)の内紛などで綻(ほころ)んで来るだろうと思いますが。
今後採るべきは、米国のように明示的合衆国制は難しいでしょうが、これから日本が試みようとしている『道州制』は、参考になりませんかねぇ。あー、民主化が遅れているから、まだまだ無理かな?

逆説の日本史 [0303]
『逆説の日本史10 [戦国覇王編] 天下布武と信長の謎 井沢 元彦著 小学館 2002年12月2刷 \1,550+税』 (購入\105税込み)
いやぁ!こんな話を聞く?/読む!と、俄然、昔の偉人のイメージが変わりますね!
これまでの“定説”や“常識”に基づいたイメージが、如何に“いい加減”で、“不真面目”なものであるかに、改めて気が付きます。
従来の常識であった、「信長公は“暴君”だとか“冷酷無比”だ」とかの批判や評価は、当時の世の中の実態や実情を考えずに、後世の人達(のご都合や思い込み)によって適当に吹聴された話から来ているようです。
私も、知識不足で、今まで信長公は“冷酷で無慈悲な人物だ!”と思っていましたが、米国または米国大統領だって、中東でやっていた殺戮・戦争を考えると、“冷酷無比”なのは同じかもしれない。
国毎の考え方の違いや、時代背景の違いによっても、その理由付けや評価が変わるんだから、無批判に“従来の常識”に乗るべきではない。
やはり、私ももっと賢くなって、自分自身で物事を評価・判断・実行する力を付けなくっちゃいけない!と強く思いました。
“独裁者”に関連するのですが、近頃、大阪市の橋下市長を、“独裁者”つまり、周りにYesマンばかりを集める、と安直に批難・批評する人(達)が居るようですね。
まぁ、自らが“創造的な仕事をする人(達)”は、当然ながら、“結果的に独裁的になる”だろうと思います。例えば、JAXAの川口氏(はやぶさ動画サイト)も、常に決断は一人でされていたようですからね。(決して、多数決やジャンケンなんかじゃない!)
批判者達の多くは、“自分自らが仕事をする・実行する”の意味が分からないで批判?してるように見えます。巷には、小田原評定 って言葉がありますが、あれは何も出来ない、何もしないの典型例ですよね!彼等は、一所懸命それをやってるって感じ。
あー、逆に、(“想像力”を逞しくして?!)“足を引っ張ること”などは、彼等は得意らしいが。(つまり、前向きではなくて、常に後ろ向きだってこと!)
ある新聞紙に載っていた橋下市長のツイッターの話ですが、お粗末さ極まるのは、自称精神科医とかいう女性が、云うに欠いて“橋下氏は「ある種の病理を抱いている」んだそうです ... “売れっ子医者”(?)って人種は、自分では掛からない病気でも、平気で他人用に作り出すらしいですね。想像的(!)だから、受けるんでしょうけど。(苦笑)


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