導育甘言集 2012.04 [我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴)]へ [表紙頁]へ
日本というシステム [0430]
『人間を幸福にしない日本というシステム カレル・ヴァン・ウォルフレン著 篠原 勝訳 毎日新聞社 1995年1月 4刷 \1,800税込み』 (購入\105税込み)
この著者の“日本(人や体制など)”に関する分析・見解は、(私にとって)かなり強烈パンチでした。思わず、“そんなはずは無い!”と言いたくなるご指摘が多々あります...が、虚心に考えると、“あるいは、そうかもしれない”と思わせられるのでした。
自分では敢えて採らなかった観点(つまりは、耳の痛い話)が多いので、自分内部での抵抗も強いので、大変重要だと思うのですが、なかなか読み進められません。(まだ、やっと半分!)
でも、「違う観点から観る」のも大切だと思うので、最後まで読み切ってやろうと思ってます。
ところで、この本の中で、「アカウンタビリティ/説明責任」という言葉が出て来て、“あれっ?!”と思っちゃいました。
先日、無罪判決の出た国会議員の小沢一郎氏に対して、以前、盛んにこの言葉を使っているマスコミや政治家が居ましたが、元の意味/本当の意義を知らず/分からずに使っていたのではないのかな?
あの言葉を聞いた時、何だかヘンな感じを受けていたのですが、やはり、あの人たちは、ご都合主義的に乱用していたようです。
むしろ、その言葉を向けるのは、今の“日本の官僚”や“その組織”に対してであって、仕事や組織の目的・目標を「説明」させた後、必ずその結果を「評価」しなければいけない話のようです。(彼らは、「仕事の成果」の有無を隠して/誤魔化して、正しく公表しない方針らしいし)
例えば組織を増やしたり、施策を打ったりした後、数年後、それが本当に有効だったか無効だったかかの評価した事がありますかねぇ?!大抵は、何時までも評価をせずに、そのままずるずると続けたりするのが、日常茶飯事になってますが。
先頃、何やら『震災復興庁』とかいうのを作ったようですが、何時までにどんな成果を出して、どのように終わるのでしょうか?
あれなど、国民の皆に分かるように、ちゃんと説明が為され、時期が来たらきちんとその成果を公表して、終結させるべきです!
親の習慣 [0427]
『子どもの成績を決める親の習慣 今村 暁著 PHP研究所 2006年10月 3刷 \1,200+税』 (購入\105税込み)
この筆者が仰りたいのは、子ども達を『自分の夢に向かって、目標、計画を立て、行動していける精神と行動力を持つリーダー』として育てるためには、“親の習慣”を正さなければダメだってことのようです。
ところが、現実には、曲がってしまっている親の方を直す/正す方法が無い、難しい!
今の親達の多くは、“目標を高く掲げたい”などとは思わないで、殆ど“成り行き任せ”あるいは“出たとこ勝負”のようです。
ただし、“勉強しなさい!”だけは、しつっこく云うらしいが。(実は、“勉強”は単なる手段に過ぎないのですがねぇ)
それと、古い諺?「あー、知ってるさ!・・・ って、鳩の巣」(賢いはずなのに、お馬鹿な巣しか作れない)の如く、“自分は何でも知ってる”と云いながら、実行は全然しない(当てにならない)親も居ますから、殊更に『行動力 ・・・ 実際に行動すること』を強調されていますね。・・・ 常に、工夫と改善を!でしょうか。
太田道灌 [0424]
『小説 太田道灌 江戸を都にした男 大栗 丹後著 栄光出版社 平成14年3月 1刷 \1,500+税』 (購入\105税込み)
この大栗版太田道灌公は、やはり“仕事が出来る人物”だったようですね。
“江戸村に城を造り、町を開いて、商工業を盛んにした”方のようですが、それは“統治”の上でも、“民の生活”を豊かにする上でも、大変有効な手立てだったろうと思います。
ところが、働き盛りの時に、主君に欺かれ謀殺されてしまったそうですが、やはり、出来過ぎるが故に“上司の妬(ねた)み”の犠牲になったわけです。(お気の毒です!)
他方、こうした人物の「優れた資質・個性」は、生れ付きのものかというと、やはりそれだけではないようですね。
何と言っても、両親の賢明さや指導力に負う所が大きい!という事が、よく分かります。
それに、何時の時代でも、時代に適した思想・技術を学んでそれを実践に活かす事が出来るなら、学問を修めるのは大変有効・有意義なのだと気が付きました。古いとか新しいとかは、関係無い!
0歳からの作戦 [0421]
『0歳からの母親作戦 井深 大著 サンマーク出版 2004年8月 1刷 \1,700+税』 (購入\105税込み)
この本には、76項目の(母親が挑戦すべき)作戦が書かれています。
例えば、
1 いい母親とは、いい子を育てようという強い意志と愛情をもった親
15 ひたむきに生きる親の姿こそ、子どもにとって何よりの教育
25 幼児教育に教科書はない
・ ・ ・
など、親達は、これらの「作戦」を、すべて知っておく必要があるなぁ!と思いました。
勿論、全「作戦」を常に実行出来るわけでもないし、家庭や家族の状況によっては、とても不可能な「作戦」もあります。
例えば、“子供どもに課した生活ルールには、例外をつくらない”って書かれていますが。実際は、結構難しい!子どもの様子を、常時見続けていてさえ、つい見逃してしまって、それが重なってしまうことが多いのが実情だから。
これらの作戦を実施するには、何時も子供の様子を見ながら機会を窺っているべきだし、親が“ちょっと気恥ずかしいな!”と思っても、兎に角“演技をするつもり”でやってみるべきでしょうね。
ただ、何時も思うのは、親(達)が子供(達)にさせたいことの“最終目的は何か?!”をしっかり肝に銘じておかないといけないということ。
それを忘れて、“すること”だけに陥ると、つい“早く!早く!”と急かしたり、“なぜ、言うことを聞いてくれないの?”と溢し勝ちになります。
まぁ、大抵の場合、急がせるのは「親・大人側のエゴ」が理由のことが多いようですが。
免疫力 [0418]
『老けない人の免疫力 安保 徹著 青春出版社 2007年8月 1刷 \1,333+税』 (購入\105税込み)
近頃は、「自己免疫力の有効性」についての色々な話、自分自身であれこれ実験してみて、結構信用するようになりました。
この本にも書かれているように、痛みや発熱は、体内での“細菌や異常状態との戦い”が、外に症状として現れて来ているわけです。
そうした(嫌な)症状を、ご都合主義的に無理矢理押さえ込むことは、戦争で言えば、“前線で戦っている味方を/の後ろから撃つ”ような愚かで無慈悲な後方司令部と同じでしょうね。
特に、西洋医薬は、そうした症状を押さえ込むのに、「身体の防衛機構・表現機能」の方を徹底的に潰しに掛かるので、一見症状は軽くなるように見えるけれども、実は身体の方を弱めてしまう。(これには、私自身実体験があります。一度、風邪薬を試しに2倍量飲んでみた時がありますが、確かに症状の方は和らぎます。けれど、翌朝物凄い疲労感を覚え、風邪薬で逆に体調が損なわれたのがよく分かりました)
薬ってのは、即効性のある『毒薬』の一種だろうと思います。その点では、効き方が緩やかなだけで、和漢薬だって同じでしょうね。
でも、こうした薬も、「自己免疫力」の援助用として巧く使えば、大変役に立つだろうとも思います。
私は、昔から胃腸薬が好きで、何かあるとそうした薬を飲むので、娘から非難されっ放し!しかし、“バカと薬も使いよで直る♪”と思うのですが、どうでしょう?!(笑)
例えば、最近は、風邪薬など“自分の匙加減”で、(例えば、指定量の1/3か1/4)にして、「睡眠促進用」や「頭痛軽減用」に使っているので、身体も大変楽だし、症状も早く引きます。
(家人からは、なぜ指定量を飲まないのか?って、嘲笑われていますが、その指定量って“誰のための量”でしょうね?)
大わらんじ [0415]
“わらんじ”って何だろうと思っていましたが、紀州地方の方言=わらじのことだそうです。
この本は、徳川家八代将軍徳川吉宗公の半生を描いた小説で、“世の風評”程度以上には知らなかったこと等を、色々知り参考になりました。
この津本版吉宗公を、一人の政治家とみると、今時の政治家より数段上(もっと上か?)に位置する人物でしょうね。
江戸時代のこの辺りになると、もう権力者や為政者主体の政治ではなく、“民衆・大衆の生活”を主体に考えざるを得ない状況になっているようで、一番割を喰っていたのが武士階級(現代では官僚・公務員達の階層か?)だったわけですね。
それでも、武士としての“誇り”で、矜持(きょうじ)が保てていたから、苦しくても体制を維持しようと努力出来たのでしょう。(今の世は、逆かも)
“名君”と呼ばれた為政者は、私利私欲だけに走らず、やはり、“国全体の安定と平和”を考えて政治を行っていたようで、それなりの智力や体力を尽くして、懸命・賢明に努力されていたのだと知りました。
(吉宗公の在り様を、今時の政治家達も見習って欲しいものです。顔の良し悪しも政治家の要件に入るそうですが、体躯の大きさはメリットのようですね。その点、スポーツマンは有利かもしれないけど。面相のことで、つい、小沢一郎氏を思い出しました)
個富論そして [0412]
『個富論そして素質論 渡辺 光博著 オービスコーポレーション・出版事業部 2003年6月 1刷 \3,800+税』 (購入\105税込み)
今、この本の1/2ほど読んだ処ですが、色々な項目に関しての指摘は、大変ユニークで、面白い視点群だと思いました。
例えば、「神」についての一節に、
『神様は、絶対で、全知全能なら、絶対不可能なことも、必ずやり遂げる能力があるか?だとしたら、“不可能を生み出す能力”など無いのでは?』・・・について、これは詭弁ではあるが、と軽くいなして居られます。
(この話は、矛盾と同じことなのですが、でも、現実の(新興)宗教群は、そうした“神の有限性問題”を巧く逃げられるように、“教義”を色々工夫しているようですから、懐疑派としては、別面からの“追い討ち”もしてみたい処ですね)
気に入った一節、
『今日という日が、生命体としてイキイキとした人生ではなく、物質的なものの処理に追われてしまっている人生なのである』と皮肉って居られますが、誠にその通りで、私もやはりそんな“物質的だけの人生”には、したくないと思っています。(尤も、そう思うのは、大して物質的でない人間のヤッカミかな?)
...でも、この本の1/2以降(素質論)辺りから、何が何だかよく分からなくなりました。分かる人(達)も居るのでしょうが、私は後を続けて読む気力が無くなりました。
科学的データと解釈 [0409]
『環境問題はなぜウソがまかり通るのか[3] 武田 邦彦著 洋泉社 2008年10月 1刷 \952+税』 (購入\105税込み)
この本を拝見していて、世の中に溢れている所謂(いわゆる)『情報』とか『科学的データ』というものは、それを“受け取る側の主観”に、酷く影響を受けるものだ!と感じました。
それは、“受け取る側の知識に依る”と言ってもいい!
例えば、“地球温暖化”は人為的なものだ!人工発生的なCO2の影響だ!って、(日本では)騒いでいますが、科学的には、逆かもしれないそうですね!自然に温暖化して来たためにCO2が増えているらしい。
しかも、その“温暖化”は、(私達の手に負えない)太陽活動の影響かもしれないそうですよ。
でも、そうした情報が、あまり普及せず常識化していないから、皆、原因に疑いも持たずに“それ!CO2排出抑制が必要だっ!”て。
それに、“温暖化”によって、“海水面が上昇する”とか云う話も、大嘘らしい。
洋酒が好きな人なら、よく知っているはずだけど、「オンザロック」なんて、下手に氷を入れるとコップから酒が溢れるはず...おい!氷水ならいいけど氷塊なんて入れるな!溶けたらこぼれっちまうぜ!というのと同じかと。(大笑)
でも、(私みたいな)下戸は、“温暖化”で北極や南極の氷が溶けると、噂通り海水面が上昇すると云われると、“そうかもなぁ!”と信じていましたが。でも、“そんなわきゃない!”と著者の武田先生は数値を上げて説明されています。
“地球の温暖化”や“冷却化”は、「地球の歴史」から見ると、恒例の出来事らしいし、“温暖化”の方が人類には「良い事」の方(動植物早生育で、食料増産や健康増進など)が多いとか!
(なるほど!その観点には、目から鱗!でした)
環境問題は [0406]
『環境問題はなぜウソがまかり通るのか[0,2,3] 武田 邦彦著 洋泉社 2007年5月〜2008年10月 4刷〜初版 各\952+税』 (購入全\315税込み)
この著者、武田先生は、毎回色々な形で大騒ぎになる『環境問題』について、より広い観点から多様なデータ分析をされ、総合的な判断をして、何が一番好ましいかを導き出して居られます。
これから、“「日本の政府機関」や「マスコミ」は、都合の良い局所的なデータだけを利用/悪用しながら、全体的にウソの結論を導出し、広報・報道している”ことが分かります。
「リサイクル運動」などは、市民・国民に“奉仕作業”を押し付けながら、更に市民・国民が納めた税金を無駄に使っているのに、全地球的な環境改善にはちっとも寄与していないらしい。
この本の内容・ご指摘を拝見して、目から鱗が落ちたような気がしました!
前々から、ゴミ焼却に余分の重油を足さないと燃えないけれど、今わざわざ分別しているプラスチックを混ぜれば、ずっと燃え易くなり容積も減るので、“ゴミ分別の意味”は殆ど無いのだ、と噂には聞いていましたが、実はそうだったのですね!
再生/リサイクルは環境に優しい(?)と云っても、実際はリサイクルするために更に余分な資源や税金や労力を使っているってことらしい。実は、まったくナンセンス/無意味なのに、私達は、さも良いことをしているかの如く思わせられています。(恥)
つまり、“個人的なエコ”と“社会的なエコ”と“地球的なエコ”とを全部ごちゃ混ぜにして、しかも全体を一見良い事のように見せ掛けているのが、今のエコ運動・リサイクル運動のようです。
ところが、“ゴミの分別”などは、日本人の綺麗好き癖(?)に合っているのか、なかなか直ぐに止められないですねぇ。逆に、“分別していないゴミ”を、(うっかり)白い目で見たりして。。。
(で、私はジャンクPC類のリサイクル/廃棄は、資源回収を謳っている業者にだけ無料で引き取って貰う事にしています)
日本とは何か [0403]
『日本とは何か 堺屋 太一著 講談社 1991年12月 3刷 \1,400税込み』 (購入¥105税込み)
この本の第三章のある箇所に、イソップ物語を例に挙げて、欧米人の考え方の中には、『非常時に備えない者は死ぬ義務がある』といった考え方が強いが、日本人の多くには、到底受け入れ難いようだ、と書かれています...私は生粋の日本人(!)ですが、やはり欧米人の考え方に同意したい。
世界の“おバカさん動画”を見ていて、つい噴出してしまいますが、彼らは他人に迷惑や被害を与えず、自己責任の範囲で、命懸けでやっている、その非常識さ・破天荒さが面白いですね。
その章を読んで、昨年の“東北大震災”を思い出させられました。
先祖が遺してくれた石碑『此処より下に、家を建てるな!』を無視して、海岸近くに住んでいた人達は、お気の毒だとは思うけれど、やはり逝って当然だったような気がします。
“堤防の低さ”や“国の対策不足”などのせいでもない、結局、被害は自己責任であり、義務だった。
いずれにせよ、自分(達)が為すべき「安全性予測や対策」を、“他人任せ”、“行政任せ”や“自然任せ”にするのは、間違いの元です。
その大元は“自助自立”だ!(“無知”や“無策”ではいけない!)と思いますし、子供達は、事ある毎に、それをしっかり学ぶ/教わるべきです。
だけど、今の日本では、「天災」と「人災」とを別扱いする風潮が蔓延し過ぎて、子供達の“自己防衛機能”が弱いまま育ってしまうのは、困ったものです。
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