導育甘言集 2013.10    我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴)]へ      表紙頁]へ

余計なお世話 [1030]
先日、孫達を遊ばせようと、滋賀・琵琶湖博物館へ行ったのだが、やたら女性従業員?監視員?指導員?が増えていたのに気が付いた。(左写真)
それが、細かい事にまで口出しをして来るので、辟易!
実は、孫息子が駐車場から靴下のままで歩き出したので、“足の裏”で「石畳」など道の凸凹も感じさせてやるつもりで、靴下を脱がせ裸足で歩かせていた。
そのついでに、博物館の中でも、裸足で走り回らせていたのだが、それで眼を付けられたらしい。(左写真クリック)
ちょこちょこと、少し狭い隙間などに入り込もうとしたりすると、即座に女性監視員?が近寄って来て、阻止しようとするのだ。(余計だっちゅーの!)
挙句に、こちらが、ずっと観察・監視しながら付いて歩いているのが見えているはず?なのに、その女性監視員?“危ないですから、ちゃんと、見てあげてくださいね!”おまけに、“裸足だと、寒いし危ないから、靴(下)をは履かせてあげたら?”だと!?
多分、その女性監視員?達は、子供の方だけを見ていて、周りや保護者(私)の方の動きは、殆ど見ていなかったのだろう。(つまり、自分の見たいものだけを見る悪癖、“木を見て、森を見ず”の類)
好意的に解釈すれば、今時の保護者達は、子供(達)の面倒もちゃんと見られないようだから、女性指導員?として、“ちゃんと指導してあげねば!”あるいは、“何か事故でも起きて、館の責任にされても困るわ!”などという配慮・浅慮なのかもしれない。
...こちらにすれば、“そんな監視や手出しは、余計なお世話のコンコンチキだ!”ってことで、“私が責任を持ちます!”と断ったのだが。
それにしても、『世の中の、余計な過保護の風潮』には困ったものだ!(「自己責任と義務」という言葉を、もっと普及させたいものだ!苦笑)

史記 武帝紀[一] [1028]
『史記 武帝紀[一] 北方 謙三著 角川春樹事務所 2008年9月 1刷 各\1,600+税』 (購入\105税込み)
時間が無くて、まだ読み切れて居ないが、少し読み始めたところから、思ったこと。
歴史は、通常の教科書で勉強するのではなくて、こうした小説で、過去の人物や時代背景のオイシイ味を知ってから、改めて、教科書に戻ると、覚え易いし、面白いからどんどん食が進む(?)のではないかと思った。
で、この『史記』、昔に教わって、その名前だけは知っているのだが、今になるまで詳しい内容は知らず。
それをこうして楽々と愉しみながら読めるってのは、大変有り難いと思っている。これも、BOOK-OFFのお蔭か?!
この著者の「武帝紀」は、3巻あるから、ゆっくり読んでみようと思っている。

天翔ける倭寇[上、下] [1026]
『天翔ける倭寇[上、下] 津本 陽著 角川書店 平成2年12月 1刷 各\1,300税込み』 (購入共\400税込み)
倭寇と呼ばれる海賊が、東シナ海を暴れまわっていた明朝末期、和歌山・雑賀の(鉄砲や剣の)腕の立つ若者達の出稼ぎ(荒稼ぎ)の話で、結構荒っぽい所業が描かれている。
会話が、和歌山地方の方言で綴られているが、丁寧な情景描写があるので、意味が採り難い会話は無いし、なかなか元気があってよろしい!(笑)
この時代の倭寇は、殆どがシナ|唐人が和人に変装した、いわば偽倭(にせやまと)だったそうだが、そうした姿の方が相手を威嚇するのに都合が良かったというのは、こうした雑賀衆達の“荒働き”もあったからだろう。
しかし、こうした倭寇達の所業は、昔の日本の武士道精神からは、やや外れて来ているようなので、あまり日本人として自慢したくも無い気がした。所詮、海賊は“賊”なのだ!と思う。
でも、何時の時代でも、強くて、自分の力でしっかり生延びられる人達は、羨ましい!
が、連中も、最後の最後は、良く練られた戦略も無くお宝を取りに行って帰りに、あたふたと逃げ惑った挙句、皆、殲滅されてしまったらしいから、やはり知力の無い体力だけでは、生きるのに限界があるって話のようだ。

民族はなぜ [1024]
『民族はなぜ殺し合うのか マイケル・イグナティエフ著 幸田 敦子訳 河出書房新社 1996年3月 1刷 \3,800税込み』 (購入\105税込み)
この本は、6箇所/6カ国の最近(当時)のナショナリズム(市民&民族)について、著者自身の足で歩いて調査・分析して書き上げたもののようだ。
確かに、歴史と現実を丁寧に追っ掛けてはいるが、泥沼が深まるばかりの感じがして、何処にも出口が見えない!....読んでいて、“もう、カンベンしてくれ!”とうんざり!
これは著者が悪いわけでもなくて、現実の世界がそうなっているのだから仕方が無いわけだが、...
いずれにせよ、人(間)が出来ることといえば、その時々、地域々々で、当事者達が少しでも改善したいと思い、改善しようと努力する以外にないだろうな。
こうした殺伐とした世界の現実を知ると、今流行り(?)の日本に対する韓国やシナ|中国の他国罵り教育?や奇妙な歴史問題?など、“ママゴト”のようなものか?!

<新>大前研一レポート [三] [1022]
『<新>大前研一レポート 大前 研一著』 承前
先に(下↓)、私は“この著者は、言いっ放しではない”と思って書いたが、読み進めると、やはり、所々「言いっ放しの箇所」がある。
例えば、政治家・代議士の質の問題で、現役(当時)の衆議院議員にアンケートを取ったら「政治改革を遅らせているのは・・・?」という設問に「議員の質に問題がある」という回答が80%あったそうだ。(皆さんよく分かってらっしゃる!?皮肉)
では、それに対して著者は、どういった対策を考えて居られているかと言えば、“・・・ 要するに良い候補がいないのである”と溜め息をついているだけのようだ。(違うかな?)

私は、“では、そうした良い候補は、何処から出て来るの?で、そうした人材を出せる下地は、何処にあるの?”という疑問を持った。
そうした人材が出せないのは、(回りまわって、)私達庶民・市民全員の“意識の低さの問題”に帰着するのではないかと思う。

けど、何をするにしても、私達自身はカチンカチンに固まってしまっていて、もう改善や改良など出来ない頭や身体になってしまっているから、幾ら“改善・改良を期待する!”と叫ばれても、今更変身出来そうにない!
結局、色々考えてみると、私達自身が、そうした良い人材を若い内から育てるか、そうした環境を用意する以外に、「良い方法」が無い!と思う。つまり、“政治改革”も“経済発展”も、全ての根源は、『国民教育に在り』とする考え方だが、それで、皆を誘導して欲しいものだ!

<新>大前研一レポート [二] [1020]
『<新>大前研一レポート 大前 研一著』 承前
この本には、現状分析に加えて、(言いっ放しではなく、)第六章には、「日本を変える法案集」があって、具体的な提案が沢山書かれてある。
いずれも興味深いテーマなのだが、誰がどれだけの費用と努力を出して、何時までに実現するか?!と云う事になると、(私が関わらねばならないとしたら、)萎えてしまう。
でも、これらのテーマの内、一つでも二つでもやるとしたら、やはり社会への良い影響が大きい、「教育関係」から始めて欲しいし、私(達)も協力したいと思う。
ただ、問題は、多勢の皆が“それをやろう!”という気力を奮い起こす動機作りが、重要で、先決ではないかと思うがどうだろう?
それと、どれだけ一般人の持続力があるか?の見極めも大事!
(例えば、東北大震災への支援なども、大多数はもう飽きてしまって殆ど無関心になっているが、そうした“関心の持続時間”もまた、“読み”に入れておかねば)
いずれにしても、日本国に、そうしたことが出来る元気な先導者≒扇動者が出て来て欲しい!(将に、神頼み!だが)
私は、大阪市長の橋下氏に期待しているのだが、まだ一般人が受け入れられる程には熟成していないのかも。

<新>大前研一レポート [一] [1018]
『<新>大前研一レポート 大前 研一著 講談社 1993年11月 1刷 \1,800税込み』 (購入\105税込み)
この本は、丁度、20年前の日本の状況を分析したものだが、“存在する問題点”と“為すべき課題”が殆ど変っていない処が可笑しくて、悲しい。
リーダー不在の問題、政府の無策(場当たり施策)、官僚達の無能、改革の担い手不足、国民貯蓄の死蔵、日本経済の停滞などなど。
その中で、私が最初に気になったのは、日本国民の貯蓄とその額だが、20年前は個人金融資産が600兆円だったのが、昨今は(噂では、)1,400兆円だとか。
この著者は、“そうした「貯蓄」や「投資」が、効率良く使われていない!もっと、富の再生産に効率良く使えるはずだ!”とのご意見。
しかし、実態は、それらの殆どが(金融機関を経由して)「日本国の借金」の穴埋めに使われているようだから、“富の再生産”どころではないと思うのだが。(苦笑)
つまり、政府が、間接的に(深く静かに、)食い潰して来ているのに、そんなものを、どうして“利益を生み出す資金”に出来ようか!?というのが、私の感想!...(しかし、政治家や経済人、官僚達、それに私達も皆知らん顔)
で、私達、か弱き庶民・市民が出来る事は、“借金の穴埋めに、せっせと貯金”だけで、その貯金も、“やがて、全部霧になって消えてしまう”のは、直ぐ目前ではないかと思う、今日この頃。(-.-;? .....“正念場”は、今でしょ!

波王の秋 [1016]
『波王の秋 北方 謙三著 集英社 1996年9月 1刷 \1,800税込み』 (購入\105税込み)
先行きを見通して、その中で生延びる戦略を立てて行動出来る優れた指導者は、どんな集団|グループにも必要だと思う。この本の中では、海嶺宮、(小四郎)、ナミノオオ、(知勝)。
しかし、そうした優れた指導者が居ても、多くの場合、良い後継者に恵まれず、その集団は終末期を迎えることになるのだが、その後継者を上手く育てられたかどうかによって、その集団の存続の可否が決まる。
特に、その集団が何かの激しい活動|行動|運動をしなければならない時には、特に有能な指導者が不可欠なのだが、今の日本国を考えると寂しい。
私達の日本国にはそうした指導者は、居ない|出て来ない|出て来られない?!
尤も、戦後からこれまでの日本国の首相は、殆ど何もしなくて良い(米国にオンブ抱っこの)時代だったので、それなりの凡庸さでも良かったわけだ。
しかし、先般の「東北大震災」の時には、指導者不在が歴然としてしまった。
復興がちゃんと進まなくても、全然痛痒を感じない人物なんて、指導者でも何でもなかったからだが、それを黙って容認し続けた私達も、“どうかしている”...そう思わなければいけないのだが。ま、何もしたくないと思っている集団には、指導者などは不要なのかも。orz

自分の意見が [1014]
『自分の意見が言える人になれ! 竹村 健一著 三笠書房 2001年6月 1刷 \1,400+税』 (購入\105税込み)
最近、こうした自己啓発の本を敢えて読むようにしている自分に、“何故、今更に?”って自問自答してみることがある。
本来なら、「論語」では、不惑(四十歳)、知命(五十歳)、耳順(六十歳)、 従心(七十歳) ・・・ だそうで、不惑を越えたから、もう今更の“自己形成”なんて不要なはずなんだが。
でも、我慢も立腹もある程度コントロール出来るようになったから、やっと四十代なんだ!...それに、まだ今でも自分を知れば知るほど、周りも良く分かるようになって来たから、多分五十代かな?...本を読んでも、メリットのある処だけを拾えるようになったから、もしかしたら六十代かも知れない...うっかり失敗したら、家人にどつかれるから、まだ七十代ではなさそうだ。(笑)...でも、現状は、毎日が面白くて、愉しい!
私の最近のモットーは『死ぬまで、生きていよう!...そして、生きている間は“活き々々と”生きよう!』...なのだが、結構、その線|筋|途に沿っていそうだ。(尤も、それも体力勝負のようで、体力が減ると気力も弱って、“げんなり”するから注意が肝要!)
この“活き々々と”は、別に“難しーく!”や“わはは♪”に限らなくてもいいと思っている...だから、玩具鉄砲にも釈迦力になれるし、海草も美味しいのだろう!...というのが自分の意見であ〜る。(笑)

海の倭人伝 [1012]
『海の倭人伝 大友 幸男著 三一書房 1998年6月 1刷 \2,200+税』 (購入\105税込み)
現時点ではどうなのか、よく知らないが、「邪馬台国論争」は、未だに終わっていないのだろうな?と思いながら、この本を読んだ。
従来の学術的な論争で、“女王の国”は“近畿大和”なのか“九州”だったのかを決める(!)のに、殆ど「魏志倭人伝」をどう解釈するかに依っていたようだが、“これは正しい!”から、“全く信用できない!”まで、幅広い見方があるそうだ。
でも、外に手掛かりになる良い資料が無いから、仕方なくこれに依存しているって感じ。
その時に重要な距離の算定の根拠に、この著者は、従来の「標準里」に加え(新しい考え方)「海里」を基にした「短里」を考えるべきだと提案されている。
こうしたアイデアや提案は、多分、専門家からは殆ど無視乃至は軽視されて来たのではないかと思うが、もし未だに問題が解決されていないなら、やはりこうした“別の考え方”を含めて試し、問題を見返すことが必要だと思う。(...でも、現実には、それが難しいようだしなぁ)
この本は、大変素直で読み易い!ただ、この著者の考え方の筋道を克明に辿るには、もう私の頭が固くなり過ぎているので、全部は追い切れなかったが、主旨だけは分かった。(丁寧に内容を追えば、参考になる良い資料だと思う)

断る力 [1010]
『断る力 勝間 和代著 文春新書 2009年2月 1刷 \900+税』 (購入\105税込み)
この著者の考え方を読み、見聞きすると、毎回、“あ、そうだなぁ!”と納得させられる。
私自身は、出来るだけ視野を広げようと(点から外向きに)しているのだが、この方の指摘は逆だ。
周りの色々な観点から見て、“それはぐるりと外周りから(内向きに)見ると、此処はこうなんですよ”と指摘してくれているようで、今までに無い“新しい見方”が分かるってわけ。
この本の中で指摘されている事で、ナルホド!と思ったのは、
 ◎私には、間違う権利がある
 ◎私には、考えや気持ちを変える権利がある
 ◎私には、「わかりません」という権利がある...などなど。
日本には、「安全神話」という言葉があるが、これは良く考えると、上のような権利を全部否定された上で要求される“安全”の話なのだ。要求する!間違う事など絶対に許されない!...そ、そんなご無体な!...と思うけれど、現実はそうなのだ。
例えば、“原発廃止論者”は、そうした「神話」を元に、“安全性”だけを要求しているわけだ。
(・・・ それをプラス側に追求して、どうやればリスクをもっと少なく出来るか?と考える処まで頑張れないのかね?)

先般、“地震予知は、出来ない、不可能だ!”と宣言したという話を聞いたが、あれは“一種の人権宣言”のようなものではないかと思う。
そりゃぁ、出来ない事を、無理矢理押し付けられて、責任を持たされるのはカナワンだろうし、多分、それを認識し宣言されたのだろう。
でも、“観測”や“推定”などは続けられるそうだから、それはそれでやるべき大切な仕事だと思う。
似たような事は、『日本国憲法』自身にも内蔵されているのだが、まだ有識者は誰も指摘してはいないのが口惜しい。

札差平十郎 [1009]
『札差平十郎 南原 幹雄著 新人物往来社 1996年10月 1刷 \1,700税込み』 (購入\200税込み)
偶の息抜き用にと買って来て読み始めたのだが、どうも私の好みと合わない。
というか、事件の起き方や発展の仕方、終わり方が、どれも極端過ぎるせいか、薄っぺらで厚みが感じらず、少しはあって欲しい“リアリティ”や“充実感”が無いのだ。
例えば、ジオラマが、紙に描かれた人物や立ち木、立体感の無い建物などが、立て|建てられ作られているって感じ。(“ま、残りを埋めるのは、読者の方でヨロシク!”って?)
勿論、小説では、書かれていない部分は読む側で適当に補って、内容に脹らみを持たせるのが“お約束”なのだが、それをさせないような極端なギャップがあると、どうしても埋められないで、“何でそうなるの!”って、イライラしてくる。
これも、本そのものの良し悪しというより、自分の“好み”に合うか合わないかの話だろうが、これで二百円は、勿体無いと思った。

裁判員制度は [1008]
『裁判員制度はいらない 高山 俊吉著 講談社 2007年3月 3刷 \1,300+税』 (購入\105税込み)
どんな論点があって、未来に向けてどのような展開があるのかな?と、興味が湧いて、この本を買ってみた。
しかし、残念ながら、中身は“イヤだ!イヤだ!”の金切り声ばかりで、うんざり!
(殆ど否定意見ばかりなので、パラパラ見て途中で放り出した)
実は、私も『裁判員制度』には拒否的なのだが、でも何故?「司法」が、こんなことをやろうとしたのかを考えると、否定ばかりもして居れない気がする。
本来、「司法」は無口な部門のはずで、賑やかなのは「行政」や偶には「立法」なのだが。
そんな無口のはずの「司法」が、世の中のために、自らが何かをやらねばならないと考えたのはなぜか?
そして、それは本来、(「司法」、「立法」、「行政」の)何処が“率先してやるべき仕事”なのかを、深く掘り下げないとダメだ思う。
(この本では、ちーっともそんな掘り下げなどが無い!厳しい言い方だが、皆んな“自己虫”ばかり!)

私が考えるのは、「今ある法律」が、現代社会に合わなくなって来ているから、本当は「立法府」が釈迦力になって、合うような法律に修正して行かねばならないということ...「司法」の本来の役目は、それをきちんとフォローすればよいだけ!
つまり、問題の元凶は「立法」(国会議員連中)と「行政(政府、官僚、官吏達)」の怠慢なのではないか?
だから、私は、『裁判員制度』そのものを非難するだけでなくて、それに絡めて「政府」や「政治」の役割の方も、注意していたいと思っている。

邪馬台創世記 [1006]
『邪馬台創世記 黒須 紀一郎著 作品社 2008年3月 1刷 \1,800+税』 (購入\200税込み)
この著者の古代小説は、極力史実や記録に沿おうと努められているようなので、作り話の処でも、結構安心して読める。(ただ、細部の描写がぼけて、さらっとした感じ、謂わば、水刷毛を多用した水彩画のような感じになっていて、やや物足りない気もするが)
それはそれとして、“邪馬台国が、出雲王国の分家だった”という想定は、なかなか面白い。
また、秦の始皇帝から派遣費や若者数千人を預かって|騙して?日本へ(不老不死の薬を探しに)来た徐福の子孫達が、日本の彼方此方に残っていたという話も、素直に頷(うなづ)ける。(あれはきっと、徐福翁の大掛かりな内緒の移民計画だったのではないかと、私の想像だが)

しかし、古代の邪馬台国(この本では奈良・大和朝廷の前身)が、日本を纏め統一する過程では、やはり外敵(朝鮮半島の勢力や飢えた賊徒達の集団)を相手にした“戦い”を経ることが必要だったようで、ばらばらで平和な国々(≒邑々)の集まりだけでは、外敵に圧倒され征服されるだけだったろうと思う。
現代社会でも、国だとか民族を意識するのは、“争い”や“戦い”がある時だけなのかも。
世界のオリンピック(マイルドな戦い)がその一例だが、アジアでは南シナ海での“小競り合い”もその例だろう。
いっそ、北朝鮮やシナ|中国が日本に向けてドンパチでも始めてくれれば、日本国(民)も“民族意識”に眼覚めるのでは?!と思ったり。
でも、その前に良識派が立ち上がって、なし崩し的に“平和もどき”が戻るので、何時までもブスブスした状態が続くだろう...というのが、私の想像。

三国志 十二の巻 [1004]
『三国志 十二の巻 北方 謙三著 角川春樹事務所 1998年8月 1刷 \1,600+税』 (購入\105税込み)
この巻では、かの有名な故事、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」場面が出て来る。
諸葛孔明が、愛弟子とも言える馬謖が、逸って軍令違反をしたために、泣く々々処罰・打首にした話だが、結局、馬謖が、“魏攻略”の大きな戦略の中にあって、自分自身の役割を誤認|勘違いして、行動を誤ったために起きた話のようだ。

結果論的に言えば、当然馬謖が悪いことになるのだが、人物を読み切れなかった孔明も、自分自身で厳しく反省している。
読者的(!)に考えれば、孔明が前以て、馬謖に、戦略の概要と馬謖の役割とを少しでも話していれば、違った状況・結果になっているだろうと思うが、そうすれば、その後の歴史は最早違った展開になってしまっていて、同じ物語にはならないはず。
だから、私達がよくやる、“もっと、こうすればよかったのに!”という後悔などは、しても意味が無いわけだ。
教訓的には、(凡人だと、やれる事は多寡がしれているのだが、)やはり、一瞬々々でこれがベスト!か、ベター!と思える動き方をして満足するしかないと思う。
そういう意味で、(結果は悪かったけれど、)馬謖は、決して悪くはなかったし、また、彼を使う決断をした、孔明も悪くなかった!
人間の歴史は、只管、そうした“成り行き”で作られて行くのだろう...と悟った。(笑)

てなもんや留学記 [1002]
『北京大学てなもんや留学記 谷崎 光著 文藝春秋 2007年6月 1刷 \1,619+税』 (購入\105税込み)
(「三国志」読破の合間に、)BOOK-OFFで見付けた「てなもんや留学記」を読んでみた。(\105税込み)
やはり女性の書き物に特有の(世間話的な)“ぺたぺた|べたべた感”はあるが、軽快さ・歯切れの良さもあり、シナ|中国の庶民・市民事情が良く分かって、参考になる。
やはり、何処の国の人達も“人様々”だし、賢い人も居れば阿呆な人も居るし、ケチや親切な人もそこここに散らばっているようだ。
しかし、政治体制が一党独裁制だから、人々の裏表もきつい|極端な様子。
この著者は、そんな中へ溶け込んで、激甘いも激酸っぱいも噛分けて|学びながら、見事に生延び|成長して来て居られるのが、素晴らしい!
今の若い人達(男女を問わず)が、この方の生き方を自分なりに参考に|真似出来れば、この日本国も、随分活気のある優れた国に出来るだろうになぁ!と思う...が。
でも、“他人(ひと)の振り見て、吾(わ)が振り直せ!”なんてのは、もう「過去の教訓」に成り果てているからなぁ。
(イージィなことは、せっせと真似する人達も多いようだが...難しい辛抱の要るようなことは、どうかな?)

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