導育甘言集 2014.01    我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴)]へ      表紙頁]へ

風塵抄 二 (弐) [0131]
『風塵抄 二 (弐) 司馬 遼太郎著 中央公論社』 承前
本書の中の、「在りようを言えば(2)物指し」(1993年1月)の項を引用させて貰って、一言。

『アジアでは、ときに国家の外交行為でも、“バガジ”がおこなわれる場合がある。
バガジ”とは朝鮮語である。ヒョウタンの一種で ・・・ 転じて別の意味にもなる。毛ほどの損害を電柱ほどに誇張して、「一億円出せ」という場合にも使われるのである。意味は、吹っかける。実直とは正反対の意味といっていい。』
この項には、まだ続きがあるが、その際の日本側の代表者は、ひたすら“実直”を通したそうだ。それで、最後は幸運な物別れに終ったそうな。
また、『実直という古風な実質の中に、勇気と正義感と公正な法感覚を加えて、まことに“毅然たる実直”をつらぬきとおした。』とある。
思うに、昨今では、こうした毅然とした態度や姿勢(を持つ人達)を、愚マスコミ(愚記者、愚編集者連)や愚議員達が、寄って集って潰しに掛かるのが、誠に腹立たしい!(籾井氏を国会へ呼び付ける民主党議員って堕落愛好者なのか?)

奥州藤原四代 [0129]
『奥州藤原四代 童門 冬二著 三笠書房 1992年5月 1刷 \1,100税込み』 (購入\105税込み)
この本は、(今は日本の世界遺産の)「奥州・平泉の地に仏国土(浄土)」を築こうとした、藤原清衡、基衡、秀衡、秦衡達の歴史を描いたもので、潤沢に得られる黄金や馬を「力」の代わりにして、中央から離れた地域に(ひっそりと?)「平和国家の建設」を目論んでいたらしい。
しかし、(そうした黄金や馬を独り占めしたいと思う)源義家らの個人的な野心によって、焼き討ちに遭い、今なら国宝級の建造物なども多く消失したという。
藤原家四代は、“お金の力”で中央政権を懐柔して独立性を得ていたが、“喧嘩の力”は弱かったから、結局は“武者のエゴ”に、あっさり負けて潰されてしまったわけだ。それに、当時の中央政権や一般大衆からすれば、金をどっさり持ち、奥州に独立国を構えようとする不埒な奴ら!とやっかみ半分で見ていたのかもしれない。
これを読みながら、何処か(平和憲法を後生大事に抱いて、只管平和を祈っている)今の日本の運命に似ているなぁ!と思えて仕方が無かった。
(毎年、巨額の軍事費を注ぎ込んで、拡張に拡張を重ね、攻めるチャンスを窺っている隣国シナ|中国はさしずめ、“八幡太郎義家”か?
そして、無為に平和国家を欣求しているだけの「日本」は、滅亡を約束された「藤原家」なのかもしれない...その滅亡を避けるには...何処かの格言、諺に「天は、自ら助くる者を助く」というのがあるが、日本では「大和撫子」達が(「守られる権利」より先に)「自らも守りに就く義務」があることに目覚めなければ、だめだろうな)

風塵抄 二 (壱) [0127]
『風塵抄 二 (壱) 司馬 遼太郎著 中央公論社 1996年5月 1刷 \1,200+税』 (購入\105税込み)
この著者の視点は、常にユニークで、厳しいし、参考になることが多い。だが、全部は賛成出来ない項もある。
“歴史は繰り返す”の実証例なのだろうか、現在の日本の置かれている状況と大変よく似た、話を取り上げられている。 平成4年9月(1992年)に書かれた「オランダ」という項では、次のような記述がある。
『...十七世紀のオランダと今の日本が似ていなくもない。
厄介な要求を各国からつきつけられて、応接にいとまがない。苦痛のたねがなければ、過去の旧悪までほじくり出され、「侵略戦争の反省が足りない」などといわれる。』
そして、オランダは、その“苛め”によって七、八十年間の黄金時代をおわってしまったそうな。
ただ、その後の記述に、『...日本は、武士の末裔らしい淡白さをもって、償うべきだ...』との記述がある。
...何だか、日本の昨今(2013〜2014年)の状況と同じではないか!だとすると、今回で2度目か3度目?
そうだとしたら、ちょっと待て!...1回目はやむを得ないとしても、そう何度も々々も嫌がらせをされて謝ったり、虚仮にされて黙っているわけには行かぬ!それが、武士の末裔が黙って受けることかっ!と怒りたくもなろうというもの。
でもなぁ...“今の日本”は、異民族の女性にでも諾々と攻め立てられ、黙って引っ込む“女性化社会”だから、とても“武士の末裔”だと威張るわけにも行くまいなぁ。(渋)

スフィンクスと日本刀 [0125]
『スフィンクスと日本刀 前駐日エジプト大使 ヒシャム・バドル著 たちばな出版 2008年7月 1刷 \1,800+税』 (購入\200税込み)
この本は、どのような話だろう?と興味が湧いて買ってみたが、なかなか(に)“確かなお考え”と“ご努力”とお見受けした!
懸命に日本語を学ばれて、日本の友人達を多く持たれ、日本を理解しようとされた上で、中東の置かれている立場や、「イスラム教」に対する“日本や世界の誤解”を解こうと努力されて来られたのが良く分かる。
日本や日本人に、「エジプト」や「中東」のことをもっと知って欲しい、「イスラム教」の本来の姿を分かって欲しいと仰っている気持ちが、ひしひしと伝わって来る。
私達日本人が、欧米の尻馬に乗って、「イスラム教」を問題視する“悪癖”は、やはり止めた方がいいようだ!
日本の政治家の「靖国神社参拝」という“日本の心・魂の浄化の風習・慣習”を、(それは悪だと)捻じ曲げて解釈し非難する昨今の隣国や米国の動きは、そうした“悪癖”と同質のもののようだ。突き詰めると、相手を責めるためのツール|材料として使っているだけらしい!
私は、(欧米には無い)日本の「神道」や「柔道」、「武士道」といった精神性の高い『を、今後も大切にすべきだと思っている。
それは、未来に“平和な世界”を作る上で、重要な要素になるだろうと思うから。
(その良い例が、先般、日本の自衛隊が、韓国軍に弾薬を提供した話があったが、彼ら武人同士は「武士道精神」でやり取りをしたはず!日本人にはそれがよく分かるのだが、他の韓国人には、殆ど分からなかったようだ。欧米にも、昔は“騎士道”というのがあって、今でもその名残?で、各国軍同士は“ルール”や“ホットライン”などを設けて、不測の事態に備えているそうだが、シナ|中国の人民解放軍は、そうしたシステムすら考えられない低レベルらしいのは、困ったことだ)

嘘だらけの日韓近現代史 [0123]
『嘘だらけの日韓近現代史 倉山 満著 扶桑社新書 2013年12月 1刷 \760+税』 (借読)
この本を読んで、お隣の国は気の毒なほど、国、国家として“自己確立”が出来ていないのだなぁ!と思った。検定教科書で教える自国の歴史を、“捏造と摘み食い”でしか書けないとか。

そういえば、日本だって、(残念だが)それほど“これが私達だ!”といった“アイデンティティー”(固有性?)、“主体性”を持っているようには思えないが。
(私達日本人一般は、常に“外国人の評判”を気にしているし、しょっちゅう“外野の声”に惑わされている。だから、こうした韓国批判も“目くそが鼻くそを笑う”の類かもしれない)
(そうした点が、白人種から馬鹿にされる所以だろうな...食用の鯨や海豚をペット扱いしたがる米国人・豪州人らから見れば、日本人はまだまだ野蛮種に思えるのだろうし、“これだけ世界平和に貢献しているのに、国連常任理事国にしないのは、なぜだ?”といった強硬な自己主張すらも出来ない)

この本で、色々史実や見方を知り大変参考になったが、一番最後に、私達が、うっかりしていたことを思い出させて貰った!...それは、消費税増税のことだ!
折角、安倍首相が組み上げて来た「日本経済の再生・活性化」を、増税で狂わせて、その成果を台無しにしよう、それによって自分達の権力を強めようと企んでいる官僚達閣僚達が居るそうだ。 (特に、口のへを曲げて、“増税ありき!”などという人物=財務木偶は、要注意!みたい)

消費税増税は、明らかに、私達庶民・市民のためのものではない!
お為ごかしに、日本の赤字財政を補うためとは云うが、実は、財務官僚達の失策や政治家達の失政の補填のためだけらしい。
だから、私(達)は、今後の増税は絶対反対だ!...でも、「原発反対運動」みたいに、盛り上がらないのはな〜ぜ〜?

...もし、やるとしても、先にお金の使い道をきっちり決めてからだ!ところで、あの震災復興税は、一体何処へ消えて行ってるんだ?財務次官、前へ出て来て答えなさい!その「失政の責任」はあんたにあるんだぜ!その「責任」を、今直ぐ取りなさい!
...てな事を、皆があからさまに言わず、何と無くムードで増税が決まってしまうところなど、私達自身の“主体性”の欠如、丸出し!
...私は、こうしたことを、ちゃんと子供達にも教えて、自分で考え、自らが行動出来るようにガイドして行きたいと思っているのだが、果たして?(苦笑)

王家の風日 (附) [0121]
『王家の風日 宮城谷 昌光著 海越出版社』 承前
この本の表紙裏を見ていて、初めて気が付いた。
水滸伝」に出て来る「梁山(泊)」が、こんなに“北方”にあったとは!
もっと南の方、「長江」に近い地域にあるのではないかと、想像していたのだが...
その“北方”で思い出したのだが、以前、YouTubeで「大秦帝国」を視聴していた時、登場人物の吐く息が白くて寒そうだったし、雪のシーンも多かったので、随分“北方”で撮影されたのだなと見ていた。
因みに、今の首都は「北京」だそうだが、きっと何時も寒いのだろうな。
連想のついでに想ったのは、大陸の寒い地域の人々は、厳しさや飢えに耐えるため、(ややもすれば)常に荒々しく、時には刺々(とげとげ)しくないといけないらしいこと...これは、ちと古代歴史の読み過ぎかな?
でも、昨今の彼の国の政府要人達の(日本に対する)絶叫調の発言(非難?)を見聞きしていると、“きっと、そうに違いない!”と思わせるものがある。(そいや、寒い国北朝鮮の宣伝放送も、そんな感じのが多かったようだが)

古来から、シナ王朝はその「北京」と決まっているらしいが、出来れば、今の首都をもっと、穏やかで、実りも豊かな南の方に移せばいいのに...と思うのは私だけだろうか?(広大な大陸の中央部から見回すと、中華でなく、まるで北狄(ほくてき)の居住域にあるように見えるが)
余計なお世話だろうけど、民主化を進める時には、首都を「南京」や「重慶」辺りに移されては如何かな?(笑)
もしかしたら、「替天行道」が成功しなかったのは、「梁山泊」が“北方”に寄り過ぎていたせいかもしれないし。

王家の風日 [0119]
『王家の風日 宮城谷 昌光著 海越出版社 1991年9月 2刷 \1,900税込み』 (購入\105税込み)
私は、日本やシナの古代、歴史の幕開きの頃の小説にも興味があって、そうしたものがあれば欠かさず買ってくるのだが、これは長い間見過ごして来た。
著者名から、推測が付きそうなものだが、なぜか、“日本の中世”の話のように思い込んで、選択から外していたのだ。
今回、選んで来てよかった!...シナの「=殷」の時代の王家や、周辺の国々の状態・様子が分かるから。
(残されていた資料に基づいて、著者が薀蓄を傾けて描き出されたものだろうが、リアリティがあるし、面白い!)

」は、“王自らが祭祀を司る大きな宗教団体”のようなものだとし、その王自らが、“神の託宣”を出し始めた様子なども描かれている。
(この形態は、エジプトなどでもそうだし、古代王朝には多かれ少なかれ、そうした性質があったようだ)

考えてみると、この頃から既に、普通古代人が持っていた「自然」に対する畏れ、怖れを、間に「半神半人間」を介在させて緩和する方法で、それを厚かましさ、倣岸さに変えて来たのではないかと思う。(エジプトでは「ファラオ」、中東・西欧では「キリスト」、シナでは「天子」)
古代では、そうした“人間の厚かましさ”を「バベルの塔」になぞらえ、それが“神の怒り”に触れて打ち崩され、「神」はやはり、人の手の届かないもの、と看做していたようだし、間に「キリスト」を入れて「神」と人間を繋ぐ役目を担ってもらったわけだが、シナ|中華では、“神”は無用で「人間の天子」止まりで満足してしまったらしい。

日本では、まだ“自然神”を奉っていて、「神社」などを介して、“ささやかな幸せ”や“魂の浄化”などを祈るし、食事の前後などに静かに手を合わせて、“万物に感謝する”のが日本人の心情なのだ。
でも、自然災害などに対しては、“畏れの気持ち”を無くしているのか?人智を尽くせば防げるはずだと思い込んでいる?(傲慢!)
にも拘らず、人間は、“原子力”を“神の火”だと思わなくなって久しいのに、またぞろ、“原発廃止論≒神域不可侵論”の“復活の兆し”があるし、別口では、“広島の原爆は、天罰だ!”とのたもうた(愚かな)韓国人も居るそうだし、もう云う事成す事、ケジメ無しのしっちゃかめっちゃか!(どうやら、韓国少女像は呪詛人形のようだ!それなら、落ちたついでに、“小便ご無用”の(上長)鳥居でも向かい合わせて立てては?笑)

...勿論、この本には、そんなことは書かれていないし、私も宗教者などではないのだが。(苦笑)

風塵抄 (続) [0117]
『風塵抄 司馬 遼太郎著』 承前
この本の中に1節に、「大領土」というのがあった。
その中で、帝国主義は「収奪の機構」であるという。
だから、絶え間なく収奪を続けるには、貪欲に周辺国を食い潰して行かないと、間に合わないわけだ。
そのためには、「軍隊」と「秘密警察組織」と「国教」が必要だったと、著者は言う。
しかし、昔のソ連がそうであったとしても、むしろ『国教=宗教』を内蔵していたがゆえに、『唯物主義』との内部矛盾により(シナ|中国などよりも)崩壊が早かったのではないかと思う。

だが(帝国主義を標榜する)今の共産主義は、随分様変わりしている。
「資本の導入」と「私有財産」を認めて、本来の原則(共産性)を大きく踏み外してしまっている上に、現代では、領土拡張・拡大は、“人的資源からの収奪”ではなく、(制圧の面倒が無くて比較的楽そうな)“無人域での天然資源の収奪”の方に狙いを付けているようだ。
例えば、シナ|中国が狙っている、日本の領海は、資源が眠っているという「東シナ海の資源収奪」が目的だそうな。
そうした意味で、昨今の「大領土」の確保・収奪は、昔とは違った意味が出て来たと思う。
...だが、そうした(帝国主義的)自然資源の収奪は、やがて人的資源や技術資源の不足、枯渇によって、後には自然破壊しか残らないのでは?...とまぁ、数百年先のシナ|中国の(日本叩きの後の)風景を想像してみた。

風塵抄 [0115]
『風塵抄 司馬 遼太郎著 中央公論社 1996年5月 8刷 \1,200税込み』 (購入\105税込み)
この著者の本(特に、長編小説)は、どれも好きだ。
でも、短編や随想は、全部が気に入るというわけでもないが、それぞれ、“物事の別の見方”を提供して貰えるので、それなりに有用だと思っている。
この著者の書いたものは、多くの知識と深い考察から、テーマ毎に的確な背景を描き出してくれるので、その中からすーっと浮き上がってくる結論が、実に良く分かるし、あ、なるほど!もっともだ!と感じることが多い。(先日読みかけた「悩むための哲学」↓とは、随分違う!)
この本の中に「高貴なコドモ」という項がある。その中で、家庭や学校で、子供にわざわざ“子供っぽさ”を教育することはない。責任回避や擬態でごまかせなどと教えるな!と書いて居られる。
そして、『本来のコドモはりりしいものである』とも...これを読んで、先日のコリンパウエル氏の話を思い出した。
洋の東西を問わず、子供達は心身ともに、凛々しく育てなければいけない!ってことを、改めて感じさせられた。

その話のついでに、実は先日、家人と回転寿司店へ行った時、皿10枚目で、偶々小景品が当たって転がり出て来た。
それの扱いを考えていたら、ちょうど、お祖母さんに連れられて来た兄弟(5〜9歳?)が二人入って来たので、一応、要るか?と尋ねた上で、弟の方にそれを上げた。
そしたら、その兄弟二人ともが、きちんと“ありがとうございます!”と礼を言ったのだ。
良かった!嬉しい!という気持ちよりも、むしろとても“爽やか”に感じた...“凛々しさ”とは、こんなのも入るかもしれない。

コリン・パウエル [0113]
『コリン・パウエル ハワード・ミーンズ著 松村 博訳 サンドケー出版局 1995年10月 3刷 \2,300税込み』 (購入\105税込み)
私は、以前からこのコリン・パウエル氏には、魅力を感じていたのだが、この本を読んで、ますます気に入ってしまった。ただし、この本の中身は、褒め言葉ばかりが多いので、少しは弱点も紹介して欲しかった!(かな?笑)
それはそれとして、後でYoutubeを覗いたら子どもたちに規律のある環境を与えよう」という講演録(TED)でも魅せられてしまった。
子供教育」に関して、私の考えている手法・手段とは異なるが、狙い[子供を、赤ん坊の時期から、きちんと規律・社会性を持たせて育てよう]は、まったく氏の考えに同感!
(...ただ、欧米人と違い、日本では、大人自身も“自発的な拡大意欲”が弱いから、規律で“へしゃげない”ように注意は必要だが)
更に、日本でも、このような社会的に成功した方達が、“ご自分(達)の練れた教育論”を広めて下さればなぁ!と、つくづく思う。
今の日本には、そうした“優れた人物、傑出した人物”が不足している?いや!実は、私達自身が、自分より優れた人を、引き摺り下ろすのは好きでも、祭り上げるのは嫌いだからなのだがから、私達皆が、その人達に引っ張り上げて貰えるチャンスが減って、(知識レベルではなく)知的レベルがどんどん落ちて来て、デフレ・スパイラル状態になっているのが、辛い。
それは、日本では“何でも、結果平等主義(全部一等賞)”という“同権主義”が蔓延し過ぎたためだと思うが、やはり欧米では普通だという“機会平等主義(スタートライン一斉)”の方(の“同権主義”)に戻すべきだろう。

悩むための哲学 [0111]
『正しく悩むための哲学 小浜 逸郎著 PHP研究所 1995年4月 1刷 \1,400税込み』 (購入\105税込み)
“一体、悩みとは何だろう?とか、誰が、どんな悩みを持ち、どんな悩みのタイプが多いのだろう?とか、そうした悩みを皆が、どのように解決しようとしているのかな?”といった内容を期待したのだが...残念ながら、この本は、色々な“表層的な社会現象の羅列”にしか見えなかった。
勿論、読む側の私の“見方が浅薄”で、“期待するもの”が違ったのかもしれないが、それを割り引いて考えたにしても、少なくとも、私にとって“自分の悩み”(体力や気力の弱さの上に立った自分の正しい生き方は何?)を解決する助けには、ちっともなりそうにない。

出来たら止めて欲しかったのは、こんな浅薄な話を「哲学」だと思わせようとしていること。
単なる“ノウハウ本”ではないか!...こんなのは、「哲学」を誤解させ、その地位を貶めるから“罪だ!”と思う。
私が期待する「哲学」とは、荒地や砂漠の中で掘る“井戸”に例えると、狙いを付けて、深く掘り下げ、水脈を掘り当てて、綺麗な飲み水を汲み上げようとする「プロ的思索行為」だから、こんな風にやたら“素人が地面を掘り返すこと”には、何の「哲学性」も無いと思う。
余談だが、時代劇で、昔の「剛毅な武将」に現代の「貧弱な美男人気タレント」を起用するようなもので、皆がそれが本当の人物(像)だと信じ込んでしまうのが、恐ろしい。
また、その逆の愚例もあって、さる県知事が、“大河ドラマで、平清盛の描き方が汚な過ぎる”とか、のたまわったやつで、マスコミもそれを取り上げてわいわい。(愚)


原題−津波(北から来た黒船) [0109]
『原題−津波(北から来た黒船)』 ニコライ・ザドルノフ著 西本 昭治訳  承前
この本は読み切るのに、随分時間が掛かってしまったが、やっと、読み終えた!
最後に、「訳者あとがき」を読んで、日本の明治政府が露国人プチャーチン提督に「勲一等旭日賞」を贈った事を知った。
米国人ペリーや、英国人スターリングにそのような勲章を贈った話は聞かないという。
そりゃあ、そうだろうな!ペリースターリング達は、日本を脅して、開国させ、自分達の利益を増やそうというのが主目的だったようだし、日本に左程の利益をもたらしたわけでもない。
その点、下田大津波の災害前後の、丁寧に描かれているプチャーチンや下士官・兵士達の日本人達との助け合い、交流の様子や下田/戸田沖で沈没した「ディアナ号」の代わりに、戸田地区で新たに作った「ヘダ号」の共同造船作業、日本への設計図の譲渡話などを読んでいると、勲章贈呈は、さもありなん!と思った。
しかも、驚いたのは、和蘭人シーボルトが、ドイツの著名な雑誌に、『日本との条約調印はペリー代将が一番だったが、本当に日本の鎖国を解かせたのは、実は露国人プチャーチン提督だった』という論説を発表していたとか...これは知らなかった!
私達日本人は、ロシア(露国)、ロシア人への対応、交流の仕方を、もっと(親密になる方向へ)探ってもいいのでは?と思った。
(余談:この話から、ふと、「北風と太陽の寓話」を思い出した!ついでに、その話を検索していて、拝見した方[nlog(n)さん]のご意見やお話も、大変面白かった♪)

天と地を測った男 [0107]
『天と地を測った男 岡崎 ひでたか著 高田 勲画 くもん出版 2003年6月 1刷 \1,500+税』 (購入\250税込み)
(まず余談から、これの値段札、通例の「裏表紙」でなくて「表」に貼ってあったのだが、カウンターのお嬢さん、いきなり「裏」だけ見て、“これは、値段札が無いので、百五円にします”だって!他に、幾冊も買っていたら、そのままレジに打ち込んでしまうだろうなと思いながら、“え?それでいいの?ちゃんと表を見たら?”と促したのだが、物事を機械的にこなしていると、そんなミスをしてしまうよ...とは言わなかったが...私の方は、少し得をし損ねた♪)

で、なぜこんな(少年向きの)本を買ったかというと、孫達に紹介してやる時の参考にという、“心積もり”もあったからだ。
読んでみて、(自分自身が)気に入った!この本は、読み易いし、大変いい!
伊能忠敬翁が、才能と執念で、物凄く大きな目標(日本全周を自分達の身体と技・業だけで測る)に、黙々と、しかも着実に進めて行こうとする姿|行きたいという意欲は、私のような凡人にも、大変参考になる。
費用も、事前に自分の家業から余剰を生み出して貯めておき、それを使って進める準備をしていたというから、他人や公金などを当てにした、“他人任せ事業”ではない点も、凄いし、偉い!と思う。
また、人物や情景の描き方にしても、配下同士の確執に対して、事業の遂行を優先して、(涙を呑んで、)愛弟子を破門するといったように、“辛い決断”をしたシーンなども、其処ここに配して、描いてある。(因みに、漫画などのように、)“そこにあるべき情景”は作者任せではないから、想像力に任せて如何様にでも小さく、あるいは大きく見る|観ることが出来る。
子供達も、こうした事業遂行への“意欲と忍耐”などを見ながら、“何が重要か?そして決断は!”を自分なりに考える、よい“下地”になるのではないかと思った。

北から来た黒船 (中) [0105]
『北から来た黒船』 ニコライ・ザドルノフ著 西本 昭治訳  承前
この本、読んでいると、彼方此方で感嘆させられる!
どうしても、著者が外国人、特にロシア人だという意識があるので、日本の古い諺などを引き合いに出してくると、“へぇー!”と驚いてしまう。(多分、原本にあるのだろうと思うが)
ここでは、『牡蠣が洟垂れを笑ふ』なのだが、私の知っているのは、『目くそが鼻くそを笑う』で、自分のことを棚に上げて他人を笑ったり、非難したりすることらしい。
大抵は、自分の反省のために...というより、他人を批評する時の言葉のようで、甚だ汚らしい感じだが、意味はよく分かる。(笑)
それはともかくとして、ここに登場する川路左衛門尉(川路 聖謨かわじ としあきらWikiPedia)は、結構硬骨漢で、頭の切れる人物だったようだし、交渉も相当に粘り腰だったようだ。
でも、ロシア側からは魅力的な人物と評されていたらしいので、やはり素直で真面目なだけが、“男の在り方”や“他人との付き合い方”ではないなぁ!と思った。さらに、この人物には“ユーモア”の持ち味もあったそうなのだが、私には、なかなか真似が出来そうにないので、甚だ羨ましい!(すっぽんが月を羨む...かな?)
(以前、この川路という人物は、確か?司馬遼太郎氏の本で読んだような記憶があるが、また、別の著者・著書で読んでみたいものだ)

北から来た黒船 (追) [0103]
『北から来た黒船 ニコライ・ザドルノフ著 西本 昭治訳 朝日新聞社 昭和52年3月 1刷 \1,600』 (購入\200税込み)
この本は、描写が丁寧なので、追っ掛けて読むのに時間が掛かるが、感心したのは、この著者は、“実に丁寧に、細かく調べたものだ!”と思わせられる点だ。
当時の日本人の在り様が良く分かるし、現代の日本人作家の描いた日本人像と殆ど違わないようだ。
そこから見えてくる当時の日本人は、やはり、庶民層も、幕府要人達も、皆“おぼこい”って感じ。欧米人の“したたかさ”に比べて、なんと偏狭で素朴で、かつ意固地なことか!
(いや、もしかしたら、今も、それ程変わっていないかも。苦笑)
それに対して、露国プチャーチン達は、英国や米国と戦争をしながら、彼らとの競合下で誠実に、日本との交易口を開こうとしていたから、相当な苦労を強いられていたようだ。
米国ペリーのように、軍艦などを持ち込んで来て強引に要求することをしなかった、いや、出来なかったからだろうけど、結局、日本との交渉は失敗に終わった?(...いや、「日露和親条約」は締結されたらしいので、失敗ではなかったようだ
この頃から、他国の「対日本外交」は、“強面外交の方が上手く行く”と、他国の連中に学習されてしまったのではないかと思う。
それが今では、アジアのシナ|中国や韓国にも、真似され始めて来たようだが...一方、「ロシアの対日外交手法」は、プチャーチンの時代とそれ程変わっていない感があるが、気のせいか?
兎に角、私達日本人も、もっと学習して、(したたかに、)賢く・強くならないと、損ばかりさせられる羽目に陥るだろうな。
...そうした殻を突き破って、私達日本(人)も、子や孫達のために、今年はもっと芽を出したいものだ!

自分教のすすめ [0101]
人間の世の中には、物事を他人にすすめる際、『思想』は高邁な処から説き起こし、『宗教』は卑近な例を引きながら誘惑するのが常道だそうだね。
どちらも、与えるもの|求めるものは同じか?といえば、そうでもないようだよ。
『思想』は手段を提供するだけだが、『宗教』は結果(と思えるもの)を提供する点が違うらしい。
不幸は嫌だ!直ぐ、逃げたい!そして、幸せになりたい!...それには、『宗教』が即効性があるそうだが、『思想』の方は、面倒臭そうだって?ま、面倒を嫌っちゃあ、何ともねぇ。(笑)
でも、どちらも人間という“多様思考性動物”には適していないようなのに、無理やり当て嵌めよう|当て嵌まろう!とする可笑しさがあるな。ウン!(ヒヒーンか)

「神様、お救い下され!」と云えば、救われるなんて思うのは、余程どうかしてるな。
問題は、“神様の、有り得な〜い奇跡”を期待したいか?それとも、“今の自分なら、取り敢えずこれ位で!”とするかだね。
それならむしろ、「自分で、自分を救ってみよう!」と考えるのが、実現し易くて、理にも適ってるんじゃないの?
...じゃあ、どうやって自分を救えばいいの?それが出来ないから、悩んでるんじゃないの!ばかね!(または、アホカ!) ... あはっ!そりゃ、自分で“知る努力”をしないからじゃない?そんなのを、“神のみぞ知る”なんて云ってると、神様だって、“この忙しい時に、一々構ってられるかっ!”って言うだろうな。(笑)
でもまぁ、取り敢えず、「望み」、「要望」をどの辺りに置くの?それが、一番のポイント!だね。
昔、アームストロング船長が、月面で言ったという、「これは小さな一歩だが、(やがて)大きな一歩になる」とか?!あの筋だろうかね。

唐突な喩え話だけど、明日は“良いお天気”になって欲しい時ってあるよね。
あれは、“そうなってくれ!”って要求するんじゃなくて、“そうなってくれれば、有り難いけどなぁ。でも、悪くってもちゃんと準備はしておくから大丈夫!”って、思ってると、結構、『良いお天気』に恵まれるんだよね♪
で、良い天気だったら、“有り難いなぁ!”って感謝する。ご飯を食べる前に、手を合わせる時の感じかな。
駄目だったら、“あ、当然か!”で我慢する。 ・・・ と、こんな「求め方」の一歩もあるんだよ♪(笑)

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