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物事集 二〇一八年五月版



『父の威厳 数学者の意地』  「五月二十六日」

『父の威厳 数学者の意地 藤原 正彦著 新潮文庫 平成九年七月 1刷 ¥476+税』 (購入¥108税込み)

この本は、大変興味深くて、参考になり、また面白い!
そろそろ忘れかけている私達日本人の“良い性向・特質、”特に“武士道”だとか、“住む土地に根ざす民族・人種意識”について、英国人気質を紹介・対比しながら、明快に再刻してくれている。
摺り減ってしまった(もう元に戻らないかもしれない)、“銅貨表面の凹凸・刻み”の如く、新しかった銅貨の“表面の深い彫り”を改めて示して貰っている感じがした。

特に同感だったのは、以下のような見方・考え方だ。
『...無制限な国際化に対する、生理的嫌悪からである。
究極的国際化とは、世界各地ですべての民族が仲良く一緒に住み、同一言語を用い、やがては同じ文化や価値観を共有することだろう。これは私にとってはおぞましい光景である。地球上の各地域が、気候や地勢を除いて相似したら、何と味気ないことだろう。花にたとえれば、すべての花畑が、各種の花とその混成種をちりばめたものばかりになるということである。一面の菜の花も一面のチューリップもなくなる。まことに平板な世の中である。
...徹底的な国際化こそ人類平和の必要条件、というのは幻想と思う。それは擬似ヒューマニズム、あるいは自己の建国理念を崇高化したいアメリカの論理でしかない。一見説得力を持つようだが、失敗に帰した共産主義の如く、それは人間という種の本性に必ずしもそぐわない。...』


・・・その通りだ!と、強く思う。
動植物にも、それぞれの土地に固有種があるのと同様、人間にも、その土地に生まれ育った固有の風土・風習や人の気質などがあるはずで、それを単純に“まぜこぜ”にすることは、決して好ましいことではない。
種の多様性”を維持・保存することが重要なのは、単に動植物だけでない!“人間という種”も含めて考えるべきだ!と思う。
まぁ、当面は世界中が、“同質の混血児”ばかりになってしまうこともないだろうが、理想ばかりを追っ掛けるとそうなるってことだ。

「日本の国技」といわれる角界・相撲も、外国人力士ばかりが上位を占める昨今では、何が何処の国技か?ってことだ。
また、“土俵上は女人禁制”としてあるにも拘らず、緊急時には構わない!って?...アメリカナイズされた、そんなルール?マナー?が蔓延(はびこ)る昨今だから、“純粋固有種の維持・存続”もへったくれもないわけだ。
昔からの「捕鯨」や「イルカ漁」もそうだが、“人の固有種潰し”が“動植物愛護・平等化”の衣を纏って、押し寄せて来るってのも、まことにおぞましい話だ。



『尖閣喪失』  「五月二十二日」

『尖閣喪失 大石 英司著 中公文庫 2013年6月 1刷 ¥686+税』 (購入¥108税込み)

5月20日付けの産経新聞の朝刊第2面に、米誌分析として、中国が、尖閣諸島の対面(大陸側)に、軍事・空軍基地の大規模な拡張・増強しつつあるという記事があった。
これからも分かるように、中国は、太平洋への進出・侵略を、ずっと継続し続けているわけだ。毎日のように、尖閣諸島周辺には、中国の公船が“日本の領海”周りへの侵入や領海侵犯を繰り返しているのも、その“静かで巧みな”戦法の一環だ。

一方、日本の諸新聞は、やれ、モリカケ問題が解明されない疑惑だとか、やれ、日大アメフト部監督は(何か?に対して)あやまれ!辞任しろ!とか、で毎日騒いでいるだけ。
(謂わば、選手達に、何が何でも相手に勝つ戦いをしろ!というのは悪!で、マナー・ルールを守って格好良く振舞ってさえいれば、負け続けてウジウジしていてもいいのだ!という風潮ばかり。
極め付けは、NHKの愚番組...“日本の諜報”(5月19日)で、番組の中身・詳細は知らないが、なぜ、日本人の税金で運営されている放送局が、そんな
国益に反するような番組を、誰に為に作ろうとするのか、理解に苦しむ。そんな内容は、関係者だけが知っていればいい(勿論、敵対者も知りたいはずの)話で、無責任な一般人が話題にすべき事柄ではないのに!)


日本国・日本人の多くは、そうした無駄でおバカで、すべて他人任せで、緊張感の無い話題ばかりで埋め尽くされた紙面群・画面群しか見せられていないので、本当は今、日本国が、どんな課題や危機に直面しているのか、殆ど分かっていないのが現状だと思う。(まぁ、皆、他人・他国任せのお気楽な生活が好きだもんな)

この本は、日本が巧妙な軍事的防衛対策に努めながらも、結局、“戦闘的自衛力”だけでは、守り切れず、最後は政治的な負け犬的判断で、敢え無く、一発の銃撃戦も無しに、尖閣諸島を占領されてしまう話を、リアリティある筆致で、描いている。
一番重要な政治的解決・対決方法に関しては、日本側はまったく無能・無力で、該国(中国)側が国内の旅行者達や就業者達を、いとも簡単に該国法律違反とかで拘束し、(捏造された)罪状で死刑宣告などの“脅し”が出来ることを理由に、あっさり尖閣諸島からの敗退を宣言する始末だ。
憲法九条は、日本を窮地に追い遣るだけで、振りかざす暇さえ無いわけだ。(嘲笑)

その時の日本の首相は誰あろう、(軍事オタクの?)石橋茂氏だって!?(皮肉)
幸い、現実は、安倍首相という逸材が、外交的に周りの諸外国に働き掛けながら、着々と中国包囲網を築きつつあるようで、期待している。
だが、それらが、この後どれだけ効果を上げるかについては、やはり、私達日本人の心意気次第だろうな。
しかし、この小説は近未来の預言書のような現実味と切迫感がある。



『死者の短剣』、『ダークホルムの闇の君』  「五月二十一日」

『死者の短剣 ロイス.M.ビジョルド著 小木曽 絢子訳 創元推理文庫 2010年5月 1刷 ¥1,300+税』 (購入¥108税込み)
『ダークホルムの闇の君 ダイアナ.W.ジョーンズ著 浅羽 莢子訳 創元推理文庫 2002年10月 1刷 ¥980+税』 (購入¥108税込み)

どちらも、別の小説が面白かったので、著者名を覚えていたから、これらも多分、面白いだろうと買ってみたもの。
しかし、どちらも見込み違いで、完全な失敗だった!

L.M.ビジョルド女史の作品は、SF小説『戦士志願』や『ヴォル・ゲーム』などを大変面白く読ませて貰って、一時は本棚にすらっと並べておいたものだ。
尤も、今は全部他の本と一緒に処分してしまったが。

D.W.ジョーンズ女史の作品は、『ハウルの動く城』が面白くて、その次に買った『アブダラと空飛ぶ絨毯』も、結構面白かった記憶がある。

今回の本は、どちらも、読み始めたものの、どうにも興が乗らない。
無理に、先へ先へと飛ばし読みをしてみたが、もやもやした“ファンタジックさ”ばかりだし、逆に“リアリティ”や“パワフルさ”が足りないので、こちらの期待感や想像力が付いて行かず、全然楽しくも面白くも無い。
マイッタ!マイッタ!...やはり、著者名だけで選ぶってのは、危うい。
これらは、中身を見ずに買った部類だが、やはり最初の数ページを読んでみて惹き込まれなければ、たとえ百八円であっても、買うのは無駄だと思った。



『宇宙 最後の3分間』  「五月十日」

『宇宙 最後の3分間 ポール・デイヴィス著 出口 修至訳 草思社 1997年4月 6刷 ¥1,800+税』 (購入¥200税込み)

え?宇宙の最後の3分間??...“最初の3分間”の話は、読んだり聞いたりしたことはあるが、“最後”ってのは初めてだ!と興味を惹かれ、買って来て読んでいる。
でも、なかなか進まない。それ程難解な文章や内容でもないのだが、読んでいて、次第に飽きて来る。

まぁ、それは兎も角、私の主な興味は、宇宙に最後(の3分間)があるとしたら、それは宇宙が収縮を始める時期があって、最近その徴候がある?もしあるなら、その徴候は何処に見出せるか?という処にある。
しかし、この本(のおよそ半分まで)では、“今研究の途上で、あんな話もあるし、こんな話もある、だけど未だ、宇宙の向かう方向は、全然分からない”という風に読める。

では、最後の3分間ってどうなんだ?と問い詰めたいのだが、こちらの期待する方向には、なかなか話を展開して貰えない。
多分、そんなことよりも、これまでの色々な宇宙研究の内容や成果を、一般人に分かり易く説明しているだけなのかもしれない。

そう割り切ってしまえばいいのだろうけど、こちらは、あくまでも“最後の3分間”に拘っているのだ!
まぁ、こうした(勝手・強欲な)傾向は、私の頭の老化に伴うものだと分かっているのだが、やはり、“読み物”は面白く読める方がいい。
そうでないのは、読むのがツライ。でも、これは、何とか最後(の3分)まで読んでやろう!(苦笑)



『放射能のタブー』  「五月二日」

『放射能のタブー 副島 隆彦編著 KKベストセラーズ 2011年11月 1刷 ¥1,600+税』 (購入¥200税込み)

この本は、事実に基づく色々な資料や意見が多く載っていて、大半の見解は賛同出来る。
(中には、見方が違っていて、賛同出来ない意見もあるが)
帯の文言「危険説ダマされる人々は愚か者である!」はその通りだ!と思う。

自分(達)に知識が無くて良く知らない、判断も出来なくて、良く分からない話は、もっと控えめに振舞うべきだと思うが、逆に、東日本大震災などでは、“分からないからこそ、ヒステリックに大声でわめく”女性連、特に母親達のヒステリー症候群は、目に余るものがある/あった。
子供への放射能障害(?後遺症...参考:図2<クリック>)が心配だから...という話で、学校の校庭の砂を全部取り除け!だとか、放射能を僅かに含んだ(汚染物)を溝に捨てたのは犯罪だ!とか、迷信に近い話を平然と持ち出して来て、行政や国に対策を求めていたが、そんな空論の対策費用は全部、私達の納めた税金なんだぞ!と言いたい。
(赤字国家で、無意味な無駄遣いは許されるものではないんだぞ!それが、分からんのかねぇ?)

その大元には、自分(達)さえ良ければ/安心出来れば、世の中、それでいいのよ!っていう“考え方”...というより、不安感だけの“情緒・情動”に振り回されて闇雲に動いているだけで、本来、社会全体に必要な“バランス感覚”や“論理的なものの考え方”は出来ないでいるわけだ。
“(自分の無知・無能から来る)不安感”を“情パワー”に替えて、社会に働き掛けることは、他方で、多くの人々の大迷惑になることなど、考えもしないのが実態。

その“情パワー”と言えば、最近猛威を振るっている“セクハラ”、“パワハラ”なる「実態の無い犯罪」(?)とも、大いに関連がある。
今や、“心を傷つけた!”という声明(だけ)で、「賠償金」や「慰謝料」というお金になる/お金儲けが出来る世の中になって来た。
更に、騒ぎを大きくしてくれるマスコミ・マスメディアの賛同・協力があれば強いもんだし、今時は司法も味方してくれる場合もあるから、皆、ワレモワレモ、イケイケどんどん!らしい。
...先般も、テレビ朝日の女性記者が、財務次官から記事ネタが取れなかった代わりに、“セクハラ話”で会社事業に貢献をしたらしいが、みみっちくて、ばばっちい話だ!
...それに、TOKIO山口達也君も、若者がよくやる、ちょっとした“おふざけ”を、低レベルの勘違いで“セクハラ大問題”にされてしまって、可哀想なもんだ。大袈裟な“訴え”にしたあの娘も母親も、ヒステリックで、弱さを売りにする低俗さに冒されていると思う。
ほんと、“情パワー”が猛威をふるう、困った世の中だ!


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