導育甘言集 2013.02    我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴)]へ      表紙頁]へ

個性? [0226]
『個性を以って貴しとす 日下 公人著 プレジデント社 1989年12月 1刷 \1,300税込み』 & 『個性の時代 加瀬 英明著 講談社 1979年10月 2刷 \980』 (購入各\200税込み)
昔から“個性は大切だ”とか“個性を発揮する”とか言われて、何となく分かったようで分からないような状態で居ましたが、これらの本でもう一度、「個性とは何か?」を確かめてみようと、挑戦してみました。
分かったのは、どうやら“個性の強調”は、“乱雑さの増大”(つまり、「エントロピーの増大」)ってコトのようですね。(良いこともあるが、悪いことも沢山!のようです)
“乱雑さばかり”(ゴミ屋敷!)を主張すると、“整頓された効率的な社会”(清潔な住まい!)が成り立たないので、現実では、程ほどに折り合いをつけるべきものでもあるようです。
例えば、体育大の「集団行動」のような“整然とした美しさ”を考えると、そこでの「個人」は“没個性的”にならないと、「集団」は“無様(ぶざま)”になり、観ていられない状態になる。
(そいや、「民主党」は、“個性を主張し過ぎた無様な烏合の集団”そのものでしたね。まぁ、あれは優れたリーダが不在で、乱雑投票による選出だったのが一番の理由でしょうが、「砂」だけでトンガリ山を作ろうとして失敗したとも言えそう)

どちらの本も、個性は創造的な方へ広げなさい!従来の整頓枠の中に留まって居ては、新しいものは何も産み出せませんよ!と書いてありますね。優れたものだけが個性的であるべきだし、それを削ったり、抑えてはいけないとも。(私達凡人は、“視る眼”を養わねば!)
日下氏の本の中で、《奴隷はそのを愛する》という言葉を引用されていますが、これは“言い得て妙!”...単語を替えて、色々な表現が出来そうです♪ 《病人はその薬を愛する》とか、《教師はその教科書を愛する》とか、《いじめられっ子はそのいじめっ子を愛する》などなど。
つまり、慣れ親しんでしまうと、他のモノ・コトは愛せなくなる?!...(だから、意識して変えなきゃぁ!変わらなきゃぁ!)

楽毅 [0223]
『楽毅(がっき)[一,,,四] 宮城谷 昌光著 新潮社 1997年11月,,,1999年11月 3,,,2刷 \1,700+税,,,\1,900+税』 (購入4冊\420税込み)
この著者の小説は、どれも大変面白い!/痛快!/ワクワクする!ものが多いのですが、古代シナの英傑を描かれると、その人物に惹かれてしまい、全巻を読み切ってしまうまで止められませんね。(それにしても、古代シナの色々な資料(伝記、論文)を基に、矛盾を均しながら一人の人物を描き上げるのは大変な作業だろうと、読みながら筆者のご苦労を想像していました)
楽毅」という人物は、周りを「斉」、「趙」、「燕」に囲まれたやがて滅亡する小国「中山」の将軍だったが、能力や人望が高く、自国滅亡後は他国王や他賢人から招かれて、その国の希望に沿うよう尽力し成果を残す。
ここでも、為政者(達)の“無為”や“怠慢”は、やがて国を滅ぼすことが示唆されていました。
国が滅ぶ際、昔の庶民(達)は、戦闘で死んで行くか、捕虜として奴隷に落とされるか、食邑(納税地)の民として生きるかだったらしいが、“無為”や“怠慢”では、とても生き延びられなかった。

ところで、今の日本には有能な権力者|為政者って居るのでしょうか?
...見るところ、素人が沢山寄り集まって、適当に代表者を選んではいるものの、意思を持って真剣に“日本国を栄えさせ、それを守りたい!”と思う人物がどれだけ居るかというと、大変疑問ですね。
(政治家にしろマスコミにしろ、選挙民や読者を“甘やかす”ことしか考えていないし、それを求める私達庶民の方も、“苦い義務”を忘れて、“甘えの権利要求”ばかり...“苦い税金”だけは沢山掠め取られてはいますが、やがては政治や報道の“無為”の中で、次第に“日本国没落 ”へと進んでいるような感じがしてなりませぬ。つまり、茹で蛙状態 !でもまぁ、皆がそれで、今が十分幸せだと感じているのだとしたら、子供達がどうなろうと、仕方が無いのかもしれませんね)

話は急転しますが、この本によると、同時代に「猛嘗君」という人物も活躍していたそうなので、更にその人物にも興味が湧きました。
(同じ著者の作品があるので買い揃えたのですが、それについては、後日!)

独走する日本 [0220]
『独走する日本 日下 公人著 PHP研究所 2007年11月 1刷 \1,500+税』 (購入\105税込み)
この著者の書かれている内容には、必ずご自身の“見方・考え方”や“具体的な対処方法”まで書かれているので、大変参考・反省になるし、また常に啓発されます。
この本の中で、今私(達)が何とか改善しないといけない性癖(欠点)について指摘されている項を拝見して、またまた考え込みました。
それは『ハル・ノートで戦争を始める必要は無かった』の項で、問題点(課題)は、“日本人の国語|文章の読解力が弱かった|無かったこと”、“粘り腰でなく、物事をあっさりと単純な方に決め付けてしまう悪癖”についての指摘。

私は、ここを読んで、今の私(達)が改正したいと思っている「日本国憲法」は内・外に、それらの悪い点が盛り込まれ過ぎだなぁ!と思いました。
第一の点は、“憲法”が一番大切のものだというわけではないのに、皆が勝手にそうだ!と決め付けているコト。
“憲法”は、「日本人の豊かで安全な生活を確保するという目的」のための一つの「手段・道具」なのに、多くの人達はその意味を取り違えてる。
(法律家や司法関係者にとっては、“憲法や法律”が唯一の拠り所でしょうが、海外で活動する企業人や旅行者にとっては、現地での安全性を確保してくれるモノ、例えば“外交力や防備力”の方がもっと重要です!そして、それらに軽重はあっても上下関係は無くて、同列のモノです)
(“憲法を守ろう!”と、それを守ることの方が大切だと思い込んでいる人達がまだ居るようだけど、“誰の|何のための憲法なのか”が分かってないらしい。いっそ、“お宝鑑定”にでも出してみたらどうですかねぇ?あー、これは売り物になりませんから、ご自分達だけで楽しんだら如何かな?!って言われるのがオチでしょうけど)

第二の点は、私達は日常生活でもよくやってしまう“決め付け”ですが、あの有名人の発言だから!とか、あの専門家の発言だから!というと、たちまち、“その話は真実だ”というラベルを貼り付けてしまうクセ。(受け取ったままで、思考停止してしまうし、個別には良し悪しを判定・評価しない)
この“決め付け”の良くない点は、“「(思考の)宙ぶらりん状態」(下記参照)に耐えられない”ので、直ぐに考えるのを停めて、分かり易い行動に走ってしまう事です。要するに“考え続けるのが、面倒臭い”からだけなんですが。
(先日も、イジメや体罰問題が話題になり、その対策案として出されたのは、学校内だけの処置でした。実は、もっと重要な「家庭・家族がやるべき課題」は、学校教育の専門家達だけだったため、採り上げられることは無かったようです。逆に、その「課題」を指摘したら、マスコミやコメンテータが非難したらしいが、それこそ“豚”でもない話です!)
今、私が一番気掛かりなのは、その“決め付け”のせいで「教育改革」が現在の枠の中だけでしか考えられていないらしいコトです。
“教育は、教員や学校だけで”とか“義務教育は、6・3・3制で十分”と“決め付けず”に、もっと広範囲に考えて、日本の子供達を賢く強靭にあるいは優しく育てる方策を、実行しなければ、「教育のデフレ・スパイラル」は抜け出せない!

エントロピー [0217]
『エントロピーの法則 ジェレミー・リフキン著、竹内 均訳 祥伝社 昭和57年11月 1刷 \1,400』 (購入\105税込み)
「エントロピー増大の法則」かと思ったら、違った!...原題は、単に「ENTROPY」でした。
(“エントロピー”は、簡単に言うと“無秩序”の尺度で、エネルギー的に見ると、エネルギー密度が高いほど、エントロピーは小さいのだそうです)
読んでみたら、本の中身は、“より高密度のエネルギーの発見・争奪・消費の歴史−社会現象の話”でした!...期待していた“エントロピー増大にまつわる話”は、ほんのチョロリとな。

自然には、“エントロピーは増大して行く”(つまり、無秩序になる)という「法則」があるのですが、それは、手っ取り早く言うと、山を削って宅地にすると、“山の自然エントロピーが増大(無秩序)”するが、“人間の生活空間エントロピーは減少(秩序化)”するってこと。
また、別の形でやってるのが「エネルギー消費」で、そうしたエネルギーを利用して、エントロピーを減少させているのが「生命現象(例えば、人間の存在)」なのです。
(脱線ですが、こんなに緻密に秩序立って組み上がって来た生命(生物全般)を、誰か(ある人達は“神”だとか?)が思い付きで作ったかのように思うのは、多分、人間の浅学・浅墓さのせいでしょう。自然って、人間の想像や願望の中に入り切るような、そんなちっぽけなものではないみたいですよ。それに、“井の中の蛙大海を知らず”ですし)

私達人間は、自然の高エネルギー源(低エントロピー状態)のオコボレを頂くだけなんですが、近頃は、何故か?エントロピー“減少”ではなくて、“増大(無秩序)”を望む傾向にあるようですね。
高エネルギー密度の「原子力発電」(高秩序)は避けて、低密度の「自然エネルギー」(無秩序)へ回帰したいそうですが?丸で、“人間の生命活動の縮小”を望んでいるみたい。(不安)
良く考えると、日本人って、エネルギー問題だけでなく生活全般に渉って、“エントロピー増大の方”が好きで、そればかりを求めているように見えるのですが、違いますかねぇ。
でも、私が思うに、『人間=生命体』なら、“無秩序が好き|エントロピー増大”などと云わずに、“秩序が好き|エントロピー減少”を狙って努力した方が、より良く生きられるはず!(そうだ!体育大秩序ある集団行動”なんてのも、素敵ですよね!)
(うーん、しかし、この「エントロピー」って言葉や概念は、大変説明し難いですねぇ!むしろ、「無秩序」の方がマシか?いや、逆にもっと良い日本語が欲しいが...)

「考え方」 [0214]
本質を見抜く「考え方」 中西 輝政著 サンマーク出版 2008年1月 8刷 \1,700+税』 (購入\105税込み)
この本の中身全体で、“考える”というのは「技術」ですよ!と仰ってますね。(私も、そう思う)
「技術」というと、多くの人はお堅い理工系の話を思い浮かべるでしょうけど、それが違うんですねぇ。例えば、普通の人が普通にやってる“箸を持つ”、“ハサミで切る”、“ご飯を炊く”、“自動車を運転する”なんてのは、全部、その「技術」なんだと思えば分かり易い。
それは、人間が小さい頃から教わって来たから、殆ど無意識に出来ることだし、他の人に伝えることも出来るのです。(もし、猿や犬がこんな「技術」を普通に使ったら、きっと話題になるでしょうけど♪)
この本には、“考える”のも「技術の一つ」で、やり方を教われば、上手くやれる!と書いてある!( ・・・ いやいや、そんなにストレートには書いてないですが。(^^;?)
この本には、「考える」ためのポイント群が書いてあります。いわば、“オリエンテーリング”の「ポスト/フラグ」群みたいなものかな?!
“オリエンテーリング”では、「ポスト」を一つでも抜かすと失格になるでしょうが、「考える技術」では、多少抜かしてもいい!でもまぁ、その分だけ“頭脳の回転”が落ちる|悪くなるってことでしょうけど。(笑)
実は、この中の幾つもの“ポスト”は、私が読むと、“あー、なるほど!”、“うーん、分かるけど実際は難しいんだよね!”とか、あれこれ重み付けがしたくなるのですが、考える経験の浅い子供達には、抜かさず全部読んでおいて欲しいですね。
特に、『「宙ぶらりん」に耐えること』は、実に意味深長で、厳しい指摘です。「考え続ける事を止めない」ってことですから

非滋養本 [0211]
『男としての「強さ」を身に付ける本 今泉 正顕著 三笠書房 発行日不明 ?刷 \1,200+税』 & 『「自分づくり」の法則 加藤 諦三著 大和出版 1996年10月 8刷 \980』 (購入\210税込み)
どちらの本も読んでみて、“私の滋養強壮”にはならないので、適宜放棄しました!
(でもまぁ、著者らの薀蓄?を眺めて楽しむ向きには、有用かも)

『「強さ」を身につける』の方は、この本の「おわりに」に引用されていた作家−曽野綾子氏の意見「・・・ 権威なしに教育などできるわけがない。」を拝見して、“あ、こりゃダメだ!”と思ったので、中をパラパラ見た後、読書終了!
(教育を、“子供・自分達への知識/強さの押し付け”と考えていた時代の思考方法だし、そうした知識/強さを子供・自分達は、実際にどうやって身に付けるのがよいのか、それらを、どう活かせば賢く/強くなれるのかについては、何も触れていない(つまり、本の読者自身が勝手に探せ!...だ)から、殆ど“実用性”が無く、役に立たないなと思いました)
『「自分作り」の法則』の方は、どれも結果論的だし、対処もノウハウ的で「法則」にはならず、“汎用性・普遍性”に乏しいと思ったので、これも途中で読書終了!
(例えば、「他人への対抗意識を捨ててみろ」と書かれてますが、そんなの、現実には“TPO(Time Place Opportunity)対応”ですからね。結局、ケースバイケースの話だし、誰もが簡単に出来る話|必要な話ではないから、汎用的ではないってことが分かりました)

知能と創造の [0208]
『知能と創造のサイエンス 七田 眞著 日本実業出版社 1996年10月 8刷 \1,300+税』 (購入\105税込み)
この本では、“既知領域”より少し“外の領域”、特に未知の『人間に脳−間脳』の働きについてメスを入れようとされています。
この著者は、実際に“子供達の右脳開発”で、具体的な成果を出して来て居られるようなので、この本の内容も興味深く拝見しました。
未知領域の事柄を説明するのに、あまり“新語”を使うと、誰も理解出来ない“珍語”や“オカルト語”になってしまうので、出来るだけ「既知の学術用語」や沢山の「具体的な事例」を使おうとされているのが良い!と思います。
でも、挙げられている事象|事柄に、常に再現性があるか?となると、ちょと不十分!
まぁ、再現性良く(実験)結果が出ないと、普通の科学者達は、研究を嫌がりますからね。
他方、信仰信者達は、1回でも起きれば十分で、“それこそ、奇跡!神の御業!”と喜ぶ。同じ事を二度以上(常に)要求するなんて、バチが当たる!...?(爆笑)

私は、現在の科学で調査も分析もしていない|説明が出来ていない領域を、「未科学領域 (Uninvestigated Scentific Field)」とでも呼ぶべきではないかと思っています。(左上写真<クリック>)
それより外は、もう想像外の世界♪(現実の人間世界とハードウェア的繋がりが殆ど無い、信仰やオカルトの領域ですね。笑)
昔の「天動説」は、天空が自分(達)の上を廻ってるんだぜ!って考え方でしたが、自分達が分かっている範囲が適当に説明出来れば、それ(旧科学)で十分だったわけで、逆に「知らないこと」や「説明出来ないこと」については、“そいつは、全部神の御業|自然の成行きにしておこう♪”で済まして来たみたい。(ま、それが“世の中の在り様”ってもんでしょうけど)

この本で紹介されている事例の幾つかは、自分自身で実験/体験(他の不成功例 (^^;?)してみるのも面白そう!と思ったのですが、問題は“私の老化した脳”で、どの程度右脳・間脳に良い効果が出るか?ワカランですね。まぁ、これは“信心力”にも関係するのでしょうけど。(苦笑)
実は、こうした“脳開発手法”で子供達を育てれば、短期間で良く成長させられて、日本全体を優れた国に再生出来るのではないか?!と考えたりもしてますが、あまり先走り|中抜き過ぎて、“オカルト的、カルト的”になってもツマラナイので、極力実証的に調べてみるのが良かろうと思ってます。

絶対音感 [0205]
『絶対音感 最相 葉月著 小学館 1998年4月 3刷 \1,600+税』 (購入\105税込み)
「音」に関しては、昔からちょびっとだけ興味があって、学術書(左写真<クリック>の右側 「聴覚と音声」 電子情報通信学会編 \6,000)も買ってあるのですが、それがあまり面白くなくて、1/3ほど読んだ後放り出してありました。(やっぱ、学会の論文集の寄せ集めや教科書的な書籍はダメな)
今般、買ったこの本「絶対音感」は、大変興味深く読ませて頂きました。
“絶対音感”は後天的なものであるらしいって事、それに(右脳でなく)左脳を使っている事、基本周波数が無くても、その連続倍音があれば、基本周波数のピッチが知覚されるが、これをミッシング・ファンダメンタルとか、ヴァーチャル・ピッチとか呼ばれている事など。 ・・・ 良く分かるし、大変参考になりました!
例えば、ヨコミネ式では、楽器を使って“絶対音感を身に付けられる”と聞いていますが、幼年時に訓練すれば備わるのだとすれば、“後天性”も納得出来ます!
でも、「絶対音感」(左脳)だけがあれば、音楽的な面で事足りるかといえば、それではまったく不十分で、その後できちんとした「相対音感」(右脳)なども学ぶ必要があるそうです。
私が思うに、“絶対音感”は一種の道具|技術であって、仕事(例えば、芸術センスのある音楽演奏)を仕上げる上で、それを自分なりに使いこなせれば、結構役に立つものらしい!(だけど、それだけに拘ったり、それだけしか知らないと、後で大変苦労するそうですね)

ついでの話ですが、昔は|今でも、論理性(「絶対音感」:左脳)に強いと、情緒性(「芸術性」:右脳)に欠ける ・・・ なんていう迷信が意外に広く普及(!)しているようですが、実は両方共によく訓練すれば、そんな結果にはならないらしい。
日本では、学校教育で(音楽授業ですら)「左脳」ばかりを訓練していて、「右脳の活性化」の方は殆ど放置状態ですから、“能力アップ”はおろか、“いじめ”なども減らせないだろうな!と思ったり。
(下記の「遊び心」も、やはり“左右脳の活性化”が関係しているような気がします)

[遊び心] [0202]
『[遊び心] 大前 研一著 学習研究社 1988年4月 7刷 \1,300(税無し)』 (購入\105税込み)
この本では、能力が高く多芸多才で(私から見れば)羨ましい人生を送って居られる著者の様子が、随筆調で描かれています。
でも、それは(天から与えられた?)既成の才能や資産などに依存したものではなくて、ご自分自らが押し広げられて来た能力(群)や生活パターン(群)なので、拝見していて、嫌味が無く、むしろ清涼感すらあります。
私などは、これまでの人生を振り返って、“あれもしてはいけない!これもしてはいけない!”という制限・制約の中で生きて来た感じがしますが、逆の発想「あれも出来る!これも出来る!」と考えて、試みれば、幾らでも自分の領域を広げられるはずだ!ということに、やっと最近気が付いたところです。でもまぁ、今からだと、広げられそうな範囲って、もうほんの僅かでしょうが。(苦笑)
そのスタンスでこの本を読むと、[遊び心]の意味が良く分かります。
私なりの解釈すると、例えば「凝り性」などは[遊び心]の一つではないかと思ったり。
(勿論、今のジャンクPC弄りも、それなんですが♪ まぁ、“能”それなりです。(^^;?)

・・・ この本を読んでいて色々な事を思い出したのですが、大学の教養学部で「図学」の例題を教わっていた時、もう一つ“別の解法”がある事に気が付いて、助教授に尋ね|指摘したら、露骨に嫌な顔をされことがあります。今から思えば、その助教授の頭の中には、“余裕|遊び心が無かったのだなぁ”と。
「教える」ってことが、「学生たちの能力を広げること」だと分かっていれば、“私は、この一例しか知らんが、君たちなら、もっと他の解法を探し出せるかも!”と言えたんでしょうけど。

[表紙頁]へ  関連記事の目次へ  [一言板]へ