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物事集 二〇一八年十二月版



『ローマ人の物語 I』  「十二月二十八日」

『ローマ人の物語 I 塩野 七生著 新潮社 1999年5月 36刷 ¥2,300+税』 (購入¥200税込み)
“歴史モノ”は、子供の頃からよく読んで来た。
意味もろくすっぽ分からない幼少期に、友達の家から「プルターク英雄伝」を幾冊も借りて来て、懸命に読んだ/眺めた?微かな記憶も有る。
尤も、読んでも余り記憶に残っていないから、本当は読んだことにはならないだろうけど。(苦笑)

この本は、大変読み易くて、その時・時代の様子が良く分かるし、現代の様相と比較し易いので、物事を考える上で大変参考になる。
今の日本のような(みんなが“人権、権利”はあっても“責任”は良く分からない/知らん!ってな)へんてこりんな民主主義と比べて、昔のローマ市民の民主主義(因みに、この時代は、そう呼べるものではなかったらしいが)は、個々人責任と権利が明確であったことなど、やはり、“民主主義とは、こうあるべきだ!”という原型を知ることが出来る。
責任・義務”と言えば、“自国を守る/防衛する義務”、それに“納税”は、皆が色々な形で負担していたそうだ。
(昨今の、沖縄基地反対運動なんて、何処の種族・人種の人間が云うことなのか?と、嘲りたくなるが)

その“義務”に対して、“権利”は、一人前のローマ市民として“投票権”を持つということだそうで、つまり、自国をどのように興隆・維持させるかについて、各人の意思を反映させられるわけだ。
勿論、それを遂行する代表者(例えば、“王”)を選んで、やってもらうことにはなるが。
まぁ、人口が少なく、現代のような複雑な時代ではなかったから、割合シンプルで、かつ強固な“権利・義務関係”が成り立っていたのだろうと思う。

この本のやっと1/3を読んだ処だが、まだまだ先があってどんな展開になるのかが、愉しみだ。じっくり読み進めて行こうと思う。



『歌舞伎漫筆』  「十二月十日」

『歌舞伎漫筆 山川 静夫著 岩波書店 2000年10月 1刷 ¥1,900+税』 (購入¥200税込み)
今の世の中、後継者不足で何処共、悩んでいるようだが、歌舞伎役者達は“ちゃんと後継者を小さい頃から指導・教育しながら育てて来ているという話”を見聞きして、(演劇の方ではなく、)“歌舞伎界”というものに興味を持った。
“後継者育成”という観点からなら、探せば、他に色々と書物は有ると思うが、偶々、“歌舞伎関連”ということで、「BOOK-OFF」で見掛けた、この本を買って来た。

読んでみると、なかなか面白い!
歌舞伎が好きで、その界の内情も良く知っているらしい筆者の“漫筆”が、読んでいるこちらにも、ほくほくと良く伝わって来る。

ところで、時代が変わっても、何とか“表を取り繕おう”とする私達日本人の心の働きは、そうは変わらないのではないかと思う一節がある。
それは、『筋を言う』のところで、
...取次ぎの役目をやる新米の役者が花道から出てきて、...殿様に向かっていう...
...「はっ、申し上げます」...
...こういう場面で、ド忘れが起こる。家老の名前が出てこない。
「ただいまお国表より・・・・・・」で絶句してしまう。
こんなときでも機転のきく役者は、そこで、ツカツカと本舞台まで行き、殿様の耳元にささやく。
<後のセリフを忘れました>
こうなると殿様もしかるわけにはいかず、つじつまを合せるしかない。
「うむ、家老の○X△が参りしとな。いそいでこれへ」...
...歌舞伎では、台本通りのセリフではないけれど
ツジツマが合っていることを「筋を言う」という。...

この「筋を言う」ということは、“表を取り繕う”と同じではないかと思うのだが、昨今の“本音で生きる”という風潮とはやや相容れない傾向かもしれない。
今時の芸人なら、機転のきかせ方がイージィな方(ゆるきゃら風)になって、例えば、ド忘れした時、「セリフを忘れました」とあからさまに/大声で白状して、会場を爆笑させるのではなかろうか?
そして、当然、歌舞伎界からは追い出される。



『般若心経練習帳  「十二月二日」

『般若心経練習帳 福田 亮成監修 小笠原 絵三子指導 大創出版 2018年4月 20刷 ¥108税込み』 (購入¥108税込み)

百均ペン習字帳を買って、ペン書きの練習を始めてから、既に4冊目。
今回は、『般若心経』を“写経”のつもりで、やり始めた。(図2<クリック>

この『般若心経』、口で唱えているだけだと気にならなかったのだが、文字にしてみると、何だか“”という文字が多い。いや、多過ぎ!(図1)
で、これを改めて読み返してみると、どうも自分の“生き方”に合わない思想のような気がして来た。

そりゃぁ、世の中には、望んでも得られないことや避けたくても避けられないことなどが多くある。でも、それを凌いで生きて/活きて行くのが人間であり、生物ではないか!と思う。
本来、生物なんてものは、エントロピー的に見れば、緩和・崩壊して行く自然=エントロピー増大の方向、つまり“”とは逆向きだもんな。それを“無だ!”、“無だ!”って言われてもなぁ。“そりゃ、聞こえませぬ、伝兵衛さん♪”

私自身は「自分教」を信じてやって来て、“やはり、この道は正しい!”と思うようになっているし、こうした“無”ばかりの思想では、(救うべき)“対象すら無い”ってことになるのではないか?!と幻滅してしまった。
でもまぁ、習字の為なら、これでもいいか!と、せっせとなぞる毎日。(笑)


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