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物事集 二〇一九年四月版



『壊れた地球儀の直し方 +別』  「四月二十五日」

『壊れた地球儀の直し方 青山 繁晴著 扶桑社新書 2016年6月 1刷 ¥920+税』 (購入 ¥108税込み)

ユーチューバー(?)KAZUYA氏が、(この本の著者でもある)青山 繁晴氏の話の仕方について、「あの話、盛り過ぎだぁ!」と、クレームを付けている『批判覚悟で言いたいことがあります』のを拝見したが、この若者、(人間/人物/他人に対する)自分の見識の狭さに気が付いていないのかな?!
(特に、有意義な批判でもなくて、単に“自分のやり方・見方とは違う!”というだけ話でしかない)

まず、「(青山氏が)子供の頃に、川や運動場で砂遊びをしていたら、手に金粉が付いた話」は、それらが実は、“細かい雲母粉、黄銅鉱粒など”(Yahoo!知恵袋)だってことを、ちゃんと教わらなかっただけの話だろうし、もしそれらが“金粉”であったとしても、集めて“金塊”にするには(値打ち以上の)コストが掛かるってことを言いたかったのだろうと、普通に理解出来る。

また「(青山氏が)パソコンを複数台並べて原稿を書くって話」は、(私は)それはそれで良い/好い方法だと思うが、KAZUYA氏はそれが気に入らない?
複数本の原稿を書く人にとって、分野別・時勢別に、それぞれ別のパソコン(PC)を置いて作業(群)をすることにどんな不都合があるのかな?タブレット1台主義(?)のKAZUYA氏は、そんな作業(群)の仕方も、知らない/編み出せないってことか?

仕事・作業(群)をマルチでこなす場合、書き掛けの途中で席を立ってもそのままのレイアウトで置いておけば、戻って来た時に、そのパソコンでは何を書いていたのかが直ぐに思い出せて、即作業を続けられるって人達も、世の中には(沢山)居ると思うが。
私なども、椅子に座っている時に使うPCと、立って腰を楽にしたい時に使うPCとは、別の場所に置いてあって、用途で使い分けているのだが、それらを1台のタブレットで済ませたいとは、思わないけどねぇ。(楽)
...まぁ、雑多知識や苦労経験の少ない今の若者ってのは、こんなものか?!(苦笑)

確かに、青山氏の話し振りやこうした執筆物・書籍(図1)にも、多分に、無駄で饒舌な感じがあることは否めない。
...時には、うんざりすることも無きにしも非ずだが。
しかし、単に“クリック数”を狙うだけが目的ではない人にとっては、聞き手に報告する方法は、“YouTuber”や“作家”とは、大幅に異なっていて当然だろうと思う。
ただ、“私が云うようなやり方をしないと、クリック数は増やせないよ!”っていう批判は、まぁ的外れで無理筋だと思う。
(単に、“青山氏の話し振りが嫌い!”ってことを、お為ごかしに云いたいだけでは?)

(予備知識がある人達向けに)歯切れ良く芯・真だけをズバッと言う人(例えば、倉山 満氏の「倉山満の国民国家論」など)や、(情報や知識の少ない人達向けに)丁寧にその背景や周辺の説明を加えながら主題に入って行く人(例えば青山 繁晴氏の『壊れた地球儀の直し方』など)や、(芸人風に)面白可笑しく他人をアホ呼ばわりする人(例えば百田 尚樹氏の「虎ノ門ニュース」など)など、人によって持ち味/持ち技は異なる。
私のような聞く側(受け側)にとって、説明の無い部分は自分で補うか、聞き流すしかないが、どうせ後で自分で裏取りすれば済む部分などは無視、飛ばし!
話の無駄・冗長な部分は、聞き流すだけだし、それが面白ければ、一緒にアハハと笑って、それでお仕舞い!または、“話のネタ”にするだけ。

結局、そうした“受け側の対処の仕方”は、自分の知識量や咀嚼力や意欲次第だろうと思う。
『壊れた地球儀の直し方 青山 繁晴著』(図1)を読みながら、ついつい余分で冗長なことを書いてしまった。(苦笑)



『創価学会と平和主義』  「四月二十一日」

『創価学会と平和主義 佐藤 優著 朝日新書 2014年11月 5刷 ¥760+税』 (購入 ¥108税込み)

店頭で一寸覗いたら、カバーの袖に、
『公明党が賛成した集団的自衛権。しかしそれは“名ばかり”のものにすぎない。閣議決定を骨抜きにしたのは、創価学会の平和主義だった。』
とあったので、“創価学会の平和主義”って何だろう?と疑問を持ち、もしかして(思想的に)深く掘り下げた解説かもと期待して買って、(少し)読んでみた。...だが、期待外れ。

中に、こうあった。
『はたして、公明党の「平和主義」は偽物なのか? 私の結論を先に言えば、「公明党の平和主義は本物である。それは創価学会の平和主義が本物だからだ。」ということに尽きる。』だそうな。

...おやまぁ、日本の“政教分離”とかいう建前など、何処吹く風?!ってことかいなぁ?(苦笑)
(なのに、他方では、内閣法制局などは、天皇陛下の「大嘗祭」を、宗教行為(?)だから憲法違反!なので禁止!とか何とか?)

それに、“(著者の)私が本物だと云うのだから、本物なのだ”というのは、(理屈無く理想を説く)宗教家らしい言い草ではないか。
...それにしても、宗教的な/お花畑的な嫌戦思想を“平和主義”と呼び、それを政治に反映させようとするのは、程度の差こそあれ、政冶に手を出そうとした故オーム真理教の連中のそれと同じで、“実行手段の合理性や現実との整合性が薄い”ので、大変怖いことなのに!

創価学会の“平和主義”を実現する手段として、単に、“座して待つ”という、一見毒にも薬にもならない案のようだが、平和を乱す敵の動き/戦争行為を事前に抑止しようという考え方や意欲が、少しも無い点では、むしろがある。
昔、一時流行し、やがて廃れた、マハトマ・ガンジー翁が説いた「非暴力、不服従」の奴隷的姿勢・態度と同じではないかと思うが。



『女系天皇話の愚 DNA/遺伝子の重要性』  「四月十七日」

『DNA/遺伝子関係の書籍類』

色々な本を読んでいると、「遺伝子/DNA」に関して、「微細構造や構成の物理的な解析技術」は相当進んで来て、部分的な「改変技術・操作技術」などは可能だそうだが、他方、その上層にある“解釈技術”や“統合的な考え方”に就いては、まだまだ低位の段階でしかないように思う。(尤も、素人が理解出来る範囲の話として、だが)
Wired」の“人類の移動と民族の分化”などは大変興味深いが、人類根源の話としては浅そう。
武田 邦彦氏の“神は遺伝子”や“天皇は何者?”というお話は、「(日本人のY)遺伝子」を考える点でユニークで興味深いが、まだマイナーな見解だろうと思う。

私が、今知りたい・考えたいと思っているのは、日本国だけが“天皇陛下が古代から男系継承で、同じ『Y遺伝子』をずっと引き継いで来られているのは何故か?”ということ。
単に“それが、歴史だから”だけの理由ではあるまい、何か(将来解き明かされるかもしれない)「重大な意味・暗喩」があるような気がしてならない。
だから、それを今の時代で断絶をしてしまおうという、安直な“女系天皇”の話や案などは愚案・痴策だ!と思う。
(それが、先の故民主党政権で出されたが、次の安倍政権で止められたのは、大変な幸運なことだった。また、古代アフリカやヨーロッパ、古代商/殷では、そんなことはまったく意識されず、伝えられることも無かったらしいから、日本の特異性が余計に目立つ)

今後、“遺伝子解析・解釈”が進めば、「日本人男性のY遺伝子群」は、「原初の人類発生時から現代までの様々な履歴」などを解き明かす上で「貴重な鍵」となるかもしれないのだ。
私達日本人一般庶民は、既に「男子相続」の制度を棄てて来ているので、もう「Y遺伝子」を遡っても無駄だろうが、畏れ多い言い方だが、日本の天皇陛下の「遺伝子」は、『過去からのメッセージを途切れること無く記憶・記録して来た(学術的にも)貴重な情報源』となるかもしれない。
(やがて、「日本の天皇陛下のDNA」を、世界の科学者・研究者達が“人類の安定存続”の為の貴重で尊いサンプルとして渇望する時代が来るのでないかという気がする)

神話の時代、神々が、人間の天皇を下界に下された時に、“子孫を生んで増やせ!ただ、自らは必ず、男系を守れ!”と仰った(暗黙の?)理由が、何かあるはず!
(“男系女性天皇”は許されても、決して“女系天皇”は許されなかったという、)その理由を、信仰的な面だけでなく、自然科学的な面からも知りたいと思っている。



『謎の古代豪族 葛城氏』  「四月十三日」

『謎の古代豪族 葛城氏 平林 章仁著 祥伝社 2013年7月 1刷 ¥820税込み』 (購入 ¥108税込み)

この本は、「建内(武内)宿禰」の九人の子の内、「葛城長柄曾都毘古葛城襲津彦 かつらぎのそつひこ)」が葛城氏の祖となった後、海運・外交を受け持ち、天皇家の外戚として威を奮い、安康&雄略天皇によって滅ぼされるまでの間の葛城氏の興隆の歴史を、詳細に掘り起こしたもので、大変興味深く読めた。

葛城氏の滅亡と期を一にして、朝鮮半島でのヤマト王権の影響力の低下などがあったことや、葛城氏は一旦は滅びたものの、後に、蘇我氏として復活したらしいことを知った。
以前、何かで“蘇我氏の出自は不明”といった話を読んだ記憶があるが、葛城氏の末裔だとしたら、話は合うのかも。
面白い(興味深い!)と思ったのは、この時代(14代「応神天皇」→21代「雄略天皇」)には、既に、半島人らとの会話には通訳が必要であり、葛城氏はそうした集団を抱えていたというし、葛城氏の滅亡に連動して、“百済”が一時滅亡し、また、“中国・宋”への朝貢が途絶えたそうなので、“外交担当の存在”が重要だった時代なのだろうなということ。
(昨今の日本国では、外務相の“存在の希薄さ”は古代とは比ぶべくもないか?)



『新しい道徳』  「四月十一日」

『新しい道徳 北野 武著 幻冬舎 2015年11月 7刷 ¥1,000税込み』 (購入 ¥108税込み)

家人は、“たけし”の言葉遣いや言い草が汚いから嫌いだという。私は、本音で物を言うから分かり易いと思うし、別に嫌いではない。むしろ、傾聴すべきことも多いので、今回も興味津々でこの本を読んでみた。

『はじめに』から『おわりに』までの何処も、“間違った解釈”はされていないところが素晴らしい!
(私も、殆ど内容に同感だ!...ただ、「カミさんの権利は守る」とかいいながら、『最近は、自宅にもめったに寄りつかない。カミさんともほとんど会っていない。』辺りは、全然賛同はしないが、それはご当人の本音の生き方なのだろうから、勝手にすればいい。)

こんな節もある。
『...これはあくまで印象だが、誰も彼もがインターネットを使うようになって、世の中が昔より不寛容になった気がする。自分と違う意見の人間、異端児とか異分子に手厳しくなった、正義感を振りかざし、誰かが何か間違ったことをしたら、徹底的に叩きのめさなくては気がすまない、みたいな奴がやたらと多い。
...答えはすでに用意されているのだ。「この中で罪を犯したことのない人が、最初に石を投げなさいキリストにそういわれて、昔に人はみんな黙り込んでしまったけれど、今は「じゃあ僕から」ってどんどん石を投げちゃうんじゃないか。ネットの世界には、そういう奴らがうじゃうじゃいるように思えてならない。』
と。

ここを読んで、これ(「批判覚悟で言いたいことがあります」など、KAZUYA chanel)なども同じ類だなと思った。
“若気の至り”だろうと思うが、陰で大人(の振る舞い)を非難して“則を越えるのは、不正義だ!”なんて云う話は、果たして、どうなのかな?



『北の川から、他』  「四月九日」

『北の川から 野田 知佑著 小学館 1994年5月 1刷 ¥1,400税込み』 (購入 ¥200税込み)
『バックパッカーはインドをめざす 黒田 博信著 集英社 1999年10月 2刷 ¥1,600+税』 (購入 ¥200税込み)

これまでに読んだ海外旅行記(例1例2例3例4)の後味の好さが忘れられず、また2冊買って来たのだが、これらは完全にカスだった。途中まで読んで、腹が立って途中で読むのを止めた。
「北の川から」は著者の“左翼人的/リベラリスト的高慢さ・傲慢さ”に腹が立ったのと、「バックパッカーは...」は著者のドラッグ嗜好や現地の人達(の寛容さ)に甘え過ぎといった“不健全・不健康さ”に嫌悪感を催したことなど。

「北の...」では、こんな(不快な)記述があった。
(ダム事務所職員が)「万一事故が起きたら、事務所の責任が問われる」といつもの決まり文句をいったそうだ。全国のダム湖の職員諸氏よ、もうそろそろ「あんたが死んだら私が叱られる」式の幼稚な、ばかげたせりふは止めたらどうか。...どこでもいい。こういう無知な職員のいる管理事務所を相手どって裁判にすると面白い。...」

この著者は、自分は何処の何様だと思っているのだろうか?(もしかして、お偉い革命家?上念 司氏が説く所謂“リベラル派”?)
きっと、公的な仕事に従事する職員達を、“政府の犬だ”とか、“権力の手先だ”とか云い募る類の(お粗末な)“革命思想人種”に近いのだろう。
...アラスカなど海外の川で(制約されること無く、自己責任という名目で)思うがままに遊んで来ているため、狭い日本の川での“制約の多さ”が気に食わないということなんだろうけど、そんな(自分勝手な)趣味の話に浮かれる連中に、(私達一般人の為に仕事をしてくれる)公務員や職員達を誹謗や罵倒する権利など無いし、まともな日本人とは思えない!
以前、沖縄での基地反対運動屋が、機動隊員を非常識な手段で挑発して“土人発言”を引き出し、鬼の(クビを取った)ように喧伝していた汚い連中の話が思される。

「バックパック...」では、インドでならドラッグ類は違法ではないらしく、平然とそれを吸って/飲んで楽しむ話が、(さも自慢げに?)幾度も出て来る。
そうした自堕落な生活でも、本人の“自由”だろうから、勝手にそっちでやってればいい!
この著者は、私達普通の日本人庶民が、他人のそんな話を読んで楽しめる、とでも思ってんだろうか?
(読んでいて、こんなプータローは、もう、日本に帰って来なくて結構だ!ドラッグを吸って毎日遊び暮らしたいヤツなど、この日本には要らないぜ!と思った)



『亡国の移民政策』  「四月五日」

『亡国の移民政策 坂東 忠信著 啓文社書房 平成30年12月 1刷 ¥1,400+税』 (新刊購入 ¥1,512税込み)
『移民亡国論 三橋 貴明著 徳間書店 2014年7月 2刷 ¥1,200+税』 (購入 ¥200税込み)

どちらの本も、折角買ったのに、目次だけを拝見しただけで、(日本の現状の問題の多さに)もううんざり。
内容を読み進めるのもなかなか進まずで、各節ごとに、自分達日本人庶民が出来ることが殆ど無いことに、歯軋りする思いで、(本を)開いたり閉じたり。

色々考えると、やはり、大元の根源は、私達自身が“受身”・“気弱”で、どんな勝負にでも“勝ちに行く気力”というものを持たないからではないか。
他(国)人から責め/攻められても、“大人の対応”(?)とか“負けるが勝ち風”の態度に終始して、きちんと対抗せず、言い返しもしないで引き下がる(悪い)性癖が、日本国(国民や政府)の習い性になっているようだ。

攻める側(敵)は、国会議員の中でも少数派のくせに、政府・与党に対して、大声を上げ暴言・虚言の限りを尽くしながらも、国会を無駄な議論で長引かせ、必要な沢山の法案を作りもせず、またにする一方で、(厚かましくも)自分達に有利な法律の方は、黙って成立させて来ている。
例えば、立場によって恣意的で、思うが侭の解釈がし易い“ヘイトスピーチ法案”などが、それだ。
【日本国・法務省サイトより】
 (1)特定の民族や国籍の人々を,合理的な理由なく,一律に排除・排斥することをあおり立てるもの
  (「○○人は出て行け」,「祖国へ帰れ」など)
 (2)特定の民族や国籍に属する人々に対して危害を加えるとするもの
  (「○○人は殺せ」「○○人は海に投げ込め」など)
 (3)特定の国や地域の出身である人を,著しく見下すような内容のもの
  (特定の国の出身者を,差別的な意味合いで昆虫や動物に例えるものなど)

(1)などは、なぜ?(声が小さくて控えめで次第に侵されて来ている)日本人側がそう言うことがいけないのか理解に苦しむが、法律になってしまえば、相手はそれを“格好の武器”として使うことが出来る。例えば、不法入国した人々でさえ、そうした法律を“武器”にして不法滞在を続けることが容易になるという。

これまでの日本社会では明文化の必要が無かったような様々な“道徳律”が、“明文化・法制化”されないまま放置されていて、もう手遅れになっているほどだし、更にその質が落ちて来ていることにも原因があろう。
戦前は、「教育勅語」や「義務教育過程での徹底」などによって、敢えて“法制化”などはせずにやって来れたからなのだが、今では、それが裏目に出ているわけだ。

昨今では、自宅や自店の周りを丁寧に掃除をする人達は、まだ多く居るようだが、外国人居留者の中には、そうした日本人の昔からの習慣に馴染めない、敢えて馴染まない連中も多く居ると聞く。
そうした居留者達が、周りから疎まれ、逆にそうした同士が寄り集まってコミュニティもどきを作り、その地域での人口増によって、その地域が様々な公的権利を大声で要求し始めたら、恐ろしいことになるだろうな。
その地域社会は、異国人の治外法権地域になるだろうし、今の沖縄県もあんな状態(外国人が激しい反対運動の首謀者)だから、このままだと日本国全土が、変質して行くことは避けられないだろう。

私達日本人庶民・市民が為せることとしては、地方・国会議員達の質や構成を改善して行くことくらいか?
私自身は、正論を掲げる議員などを推して、そうした議員達で議会や国会が運営されて、私達日本人が有利な体制に変えて行ければ!と思っている。



『大蔵省主計局』  「四月三日」

『大蔵省主計局 栗林 良光著 講談社 1986年8月 1刷 ¥1,500』 (購入 ¥200税込み)

以前ネット番組で、何方かが曰く、“財務省のキャリアは、東大・法学部卒ばかり。経済畑出身者が居ない/少ない”と言われていたのが気になっていたが、この本を拝読して、あながちそれが拙いわけでも無さそうだ思った。
官僚の側から“国家の計”を考える時、ヘンに技術畑に偏っているよりも、広い視野や深い知識、巧みな折衝能力や問題解決能力などが必要らしいからだ。

予算割り当て一つにしても、“個別案件の重要性”と“全体との釣り合い”を勘案して決めて行かねばならないが、“政府の方針”や“政治家側からの圧力”も織り込まねばならないという。
公務員にはなりたくない素人で、唯の庶民の私にしてみれば、とても自分には勤まらない類の(厳しい)仕事だなぁと慨嘆するばかりだが。

前半の“大蔵人事”の方は、左程面白いものではないが、第4章からの「主計官列伝」は人間模様などが見えて、興味深かった。
各種の表データなどは、その筋の専門家向きだろうな。



『政権奪取論』  「四月一日」

『政権奪取論 橋下 徹著 朝日新書 2018年11月 4刷 ¥890+税』 (新刊購入 ¥961税込み)

世の中の“行動作法”には、「起・承・転・結」とか、「Plan・Do・Check・Action」とかいったステップが必要だそうだが、日本の政治家や政治関係者や官僚達や評論家らが、これの最後まできちんとやってくれているのか?が、甚だ疑問!
というより、「政策」を思い付いたら、それを闇雲に実行するだけで、実行後の「検証・評価」や(反省としての)「修正・再実行」などは“ホッタラカシ”のまま、次の課題に走っているようにしか見えないことが多い。

私は、こうした政治家達の“やりっぱなし政策”による“税金の食い散らかし”が、国の財政赤字増やし続けていると確信している。
財務省が、“財政赤字だ赤字だ!”と騒いでいるのも、無理からぬことだ。
決して、彼らがウソを喧伝しているわけではない!
また、それを増税などに転嫁しようとするのは、“頬かむり式の小ずるい手”だってこと。
やはり、一番の悪人ら(?)は、政策を真面目に最後の「チェック&改善」までをやらない政治家達だ!!(とはいえ、彼らも選挙域住民の要望を叶えようとしているだけなんだろうけど)

そうした点から見れば、この本の著者 橋下 徹氏は大阪市政・府政で、各種の政策を発令し、それらが軌道に乗るまで必死でフォローをして、皆に力を出させながら成果を挙げられて、住民サービスを実施されて来たことは、大変重く評価出来る(国家大計の「大阪都構想」の方は住民側にとって自分達へのサービスになるかどうかは、疑心暗鬼らしいが)

この本は、ご自分が、ご自身で実際に実現して行く為の現実的な策として書いて居られるものだと読める。
つまり、評論家達が、“こうあれば良いとか、こうすれば理想的なんだが...”とかいった、“お花畑的な他人任せの政治の在り方”を書いているわけではなく、「現実の直面しなければならない事項」(綺麗ごとなら隠してしまうような項目でも)をきちんと明らかにしておいて、それを「現実的に仕分け・処置」することを提示されている。
(中には、えっ?そんなことを俎上に?と思うようなことも挙げられていて、素人の私でも一瞬ギョッとなるが、現実には、既に曖昧な状態のままで、悪い方に進んでしまっている手遅れ感の強いテーマも)

この“自ら実行”は、日下 公人氏がよく言われる「そうしたいなら、ご自分でやってごらんなさい!」と相通じる話ではないかと思う。
例:『アメリカ、中国、そして、日本経済はこうなる』日下公人、三橋貴明共著、WAC、2010年4月、2刷、933円+税』
(自分では出来ないことばかりなので、)この本の方式で、橋下氏に、国政も託してみたいと思う。


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